放課後、玄関へ向かう階段の途中。背後から声を掛けられ、葵は振り返った。亜理紗が駆け降りてきて並ぶ。
「葵、今日は部活休みでしょ。どっか寄り道してかない?」
「休みだけど…。琢巳くんは?補習終わるの待ってるって、言ってたよね」
「待たなくていいって言われた」
 唇を尖らせる。普段はサバサバ系の亜理紗が、時折拗ねるのは可愛い。
 中間テストで赤点取ったと、廊下に貼り出された補習者リストを前に騒いでいたことを思い出す。思わず笑ってしまう。
「紺野もでしょ?」
「そう。あたしも待ってなくていーって言われた。みっちりやるらしいね。遅くなるんじゃないの」
「待っていたいとか、思わない?」
「え。だって、帰っててって言われたらさ」
 帰るでしょ、と、当然じゃないと続きそうな口調だ。
「あー、あんたに聞いたのが間違いだったわ」
「どーゆう意味よ」
 葵は斜に亜理紗を見る。別にぃ、とはぐらかされた。感じ悪いなぁと文句を返しながらも、実際のところたいして気にしてはいない。どこ行こうか、と話題を変えつつ亜理紗に視線を移した更に向こう側、見知った影を発見した。
「沙月先輩!」
 呼ばれた方は反応よろしく、すぐさま葵を捉えた。
「榊。帰るところか、」
 沙月の声が途切れた。
 階段の途中で固まったままの亜理紗が目を見開いていて――小さな悲鳴があがった。
 沙月の元へ駆け寄ろうと動いた葵が、見事に足を踏み外していた。ガクンと身体がぶれ、自分に起きている現状を把握しているような、していないような、奇妙な表情が浮かんだ。
「葵っ!!」
 亜理紗の声が廊下を流れていく。伸ばした手が、重力に引っ張られていく葵を捕まえられず、空を切った。
 葵の視界が廊下の床で埋め尽くされる。身体が空中に放り出され、痛みを予測した。目をつぶった葵を包み込んだのは、硬質な痛みでも床の冷感でもなかった。柔らかい、ぬくもり。
 続けざまに、耳元に落とされた囁き。
「セーフ、だな」
 ほんの少しでも顔を動かせば、沙月の頬に触れる距離。
「ナイスキャッチ、です…先輩」
 咄嗟に返していたのは軽口調。呟きに近い音量になってしまった。騒ぎ立てる心音を努めて押し込めた。それは踏み外したことに対する動揺からなのか、抱き締められた急接近の所為なのか。とにかく、胸を押えていないと心臓が飛び出してしまいそうだった。
 大丈夫、と問われ、何度も頷きつつ、ゆっくりと身体を離していった。
「すみません。ありがとうございます」
 それまで沙月によって支えられていた自身の体重が自分の足に移行し、鋭い痛みが下から突き上げた。
「っ!?」
 大きく傾ぎそうになって、またぞろ沙月によって支えられる。忌々しい目線を送っても改善されないのは百も承知で、足元を睨み付けた。
「挫いちゃったみたいだね。保健室行こう。送るよ」
 沙月の“送る”に含まれているのは、保健室までだと葵は解釈していたのだけど、最終的には家の前までだった。
 普段穏やかな沙月は、穏やかなりに強引で。強制されたわけではないが、従わざるをえない優しい語調に、押し切られてしまっていた。


◇◇◇


 朝の駅のホーム。電車を待つ時間、並ぶ列の中に葵は立っていた。
 重心を中央に置くと昨日痛めた足が悲鳴をあげるので、必然的に片側に身体が傾く。腫れはだいぶ引いていた。通常よりは遅い歩みになるのだが、登校するのに問題無い、と判断した。ゆっくりでも間に合うように、いつもより数本早い電車を選ぶ。
「足、痛そうだね」
「荷物持ってあげよっか?」
 不快感を与える馴れ馴れしさを代表する口調が、葵に向けられた。そちらを見ずとも、視界の端に二つの影が近づいてくるのが映った。
 聞こえてないのか、などと小声で囁き合っているが、丸聞こえだ。
 遥の忠告が耳を掠めた。前にも今みたいな感じで声を掛けられたことがあった。待ち合わせをしていた時だ。
 葵に自覚はないのだが、遥曰く、騙し易そうな顔つきの奴がぼけっと立ってたらカモにしか見えないんだよ、だ。
 あたしって、ほんとに、ボーっとしてるように見えるんだ。自分に呆れ、遥のむっとした顔が浮かんだ。
 あの時はすぐに琢巳が来て、妙にからまれることはなかったけれど。後から話を聞いた遥は、その後しばらく不機嫌だった。
 こんな時はどうするんだったっけ。記憶を探る。遥の忠告が耳に復元した。
『とにかく無視だ、無視!いいなっ』
 どうして遥があそこまで怒っていたのか、葵には理解できなかった。
 またか、って呆れられるのも嫌だしな。
 ここは遥の言った通りに遣り過ごそうと決意する。
「ねぇって。足怪我してんでしょ?持ってあげるって」
 強引に視界に顔を出すと葵の鞄に手が伸びる。無視をしていればいなくなるものかと踏んでいただけに、相手の行動は予想外だった。思わず視線を動かしてしまい、目が合った。
「うおっ、当たりだ」嬉々とした笑顔だ。
 当たり、って、なにが?
 意味が飲み込めず、困惑する。
 覗き込むようにして下から顔を近づけようとするのと、葵のすぐ隣に立っていた男もにじり寄ろうと動く。後退の為に下げた足は昨日挫いた方で。
 避けることしか頭になかった葵は、全体重をそこに乗せる羽目になった。当然支え切れるわけはなく。
「いった、ぁ!」
 転ぶという構えは、あっという間に不要のものと化した。
「俺の連れに、用事?」
 端的な口振り。確かに聞き覚えのある声なのに、記憶にあるその人は、一度だって今みたいな言い方をしたことがない。する人ではない。自分のことを「俺」と言ったのも、聞いたことがなかった。
 肩を支えてくれる手は大きく、優しい。葵の知っている手だ。昨日も受け止めてくれた手。
「さっ、沙月先輩!?」
 沙月の目配せに、次々と沸いていた言葉を押し込める。軽く混乱しかけて、肩に置かれた手が諭すように力を込めた。任せて、と言われている気分になり、安心感が降りてくる。
 対面する男二人はたじろいでいた。突如として現れた長身が、自分達を見下ろし睨みつけている。登場の台詞を思い返せば、葵は沙月の彼女ということになるわけで。
 へらへらと愛想笑いとも覚束無い笑いを残し、そそくさと去って行った。
「大丈夫?」
 展開に茫然としていた葵は我を取り戻し、沙月を振り仰いだ。
「だ、大丈夫です。ありがとうございます」
「どういたしまして。間に合ってよかった」
 爽やかすぎる笑顔に見惚れてしまう。元通りの沙月だ。
 この人が自分を好きだったなんて、信じられないな。
 葵の視線に「ん?」と返す沙月に「なんでもないですっ」と慌てる。その時丁度、電車が滑り込んできた。
 朝の電車が混んでいるのは毎日のことなのだけれど、多少いつもより早くしたからといって、格段に空いている筈もなく。少しでも期待していた自分の甘さを痛感する。
 ホームに入ってきた車両はどこも満杯。いっそ踵を返し、学校休んでしまおうかと魔が囁いた。無事に降車駅まで立っていられる自信が無い。
 軽く背中を押され、隣を見上げる。
「乗るよ」
「え、あ、はいっ」
 先に詰め込まれていた乗客達を更に奥へと追い遣り、どうにかこうにか扉の内側に場所を確保する。降りる駅まではこちらの扉が開くことはないので、ずっと寄り掛かっていられるのだけど。潰されること覚悟で身構える。身体の前で抱えた鞄をぎゅっと抱き締めた。が、予想に反して、葵が息苦しくならない程度の空間は保たれている。
 沙月の腕が、足が、身体が、領域の侵略を阻んでいた。踏ん張っているのが大変な労力だと簡単に想像がつく。それが葵の足を気遣ってくれていることも。
 やめて下さい、というのも変…だよね。
 思案に暮れる。窺い見る視線に、間近にある沙月の顔は何食わぬ表情を作った。
「先輩、」
「きつい?ごめんね。ちょっとこれ以上空けるのは、無理っぽい」
「そうじゃなくてっ…」
 無理しなくていいですよ、と言って沙月が同意したら、今より密着するわけで。
 そんな事態は間違いなく、抱き締められた時を思い出してしまう。自分の心臓がもつとは到底思えない。今でさえ、うるさいくらいに騒いでいるのだ。
「気遣いは要らないよ。怪我人なんだから」
 考えてることなんて、お見通しだ。返せる言葉が見つからなくて、葵は素直に礼を述べた。


 駅から学校まで、沙月は歩調を合わせてくれた上に、鞄持ちをしてくれた。教室に辿り着くまで恐縮しっぱなしで、その度に沙月は困ったように笑った。
 つくづくすごい人を振ってしまったんだな、などと申し訳ないを二乗したりして。
 教室の入口からは亜理紗にバトンタッチで、朝練(と称した戯れ)バスケを終了したばかりの遥と琢巳に挨拶する。
「なしたのよ、その足。だから今朝はバスケこなかったんか」
 ほっておいても先陣きって話し出すのは、決まって琢巳だ。思い浮かんだまんま、見たまんまを後先考えずに口にするタイプだった。質問は琢巳がするだろうとでも言わんばかりに、遥はじっと動向を見守っている。
「昨日挫いちゃって」
「大丈夫なん?」
「うん。腫れもだいぶ引いたしね」
「沙月先輩と登校したの?鞄持ってもらっちゃって」
 揶揄口調で亜理紗は言う。
「駅で偶然会ったの」
 葵は真面目に返したのと、別の角度からの声が重なった。
「電車の中で密着してたなー。彼氏鞍替えか?榊!」
「先輩は庇ってくれてただけだよっ。変な言い方しないで!」
「ムキになるのが怪しいよなぁ」
 まだ継続させようとするクラスメイトを亜理紗が追い払う。
「てんでガキなんだから。ばっかみたい」
 ふんと鼻を鳴らし、亜理紗は遥を見る。
「紺野も、真に受けてんじゃないよ」
「判ってる」
 むくれた時の口調だ。本当は真に受けてんじゃないの?
「じゃあどうして機嫌悪いの」
「別に」
「すっごい感じ悪いんだけど」
 ぶっきらぼうな物言いに、葵はぶうと頬を膨らませた。
「お前さ、」
「うん?」
 予鈴と共に担任が入ってきた。着座し、トーンを落としてもう一度促す。
「捻挫したなら、連絡よこせ」
「え。何。連絡しなかったの怒ってんの?たいしたことなかったし、学校休むつもりでもなかったから」
 そんなことくらいで、という気持ちは正直あったものの、葵はごめんと付け加えた。
 遥から返ってきたのは溜息で。不機嫌が消えた様子もなく、疑問符を浮かべ見つめるしかなかった。目線だけで促すと、さっきよりも小さくなった声で遥は言った。
 迎えに行ったのに、というのはかろうじて聞こえたけれど、その後続いた台詞は呟きよりも小さく、聞き返す。
「遥?聞こえない。もう一回言って」
 心なしか顔が赤く見えるのは気のせいだろうか。
「だぁからっ」
 唐突な遥の勢いに気圧される。唖然としてる間にばっと顔が向いて、今度はきっぱりと言い放つ。半ばやけっぱちな勢いだ。
「次からはちゃんと教えろよ!俺はお前の彼氏なんだから!」
 喧嘩越しの語調も赤面しながらでは迫力無し。笑いを噛み殺しても可笑しくて。嬉しくて。
「笑ってんなっ。あー、くそっ」
 ぼやく遥の横顔に、満面の笑みで「うん!」と応えた。




[短編掲載中]