例えば親友の彼氏が(事情があるにせよ)他の子と仲良くしているのを、当の親友は黙認しているとして、自分自身の身に起きていることではないからといって、怒らないのはおかしい。怒るのは至極妥当な筈だ。と、小柴亜理紗が思い立って現在の遠慮なき睨みを、いわば被害者ともいえる親友にしているかどうかは定かではないが。

 真っ正面で仁王立ちし明らかに自分に対して怒っている亜理紗に葵は圧倒されていた。ちらと救いの手を求めて盗みみた亜理紗の彼氏である琢巳はそんな視線をあっさりと受け流す。
 亜理紗の怒っている原因を判らなくはないのだけれど、葵はほとほと困り果てていた。
「し、柴ちゃん。落ち着いて。ね?」
「これが落ち着いていられるかってーの!」
 怒りの矛先をとりあえず机と定めているのか、さっきから言葉を発する度にばんばん叩いている。
「あんたはそれでいいわけ!?」
「いいも何も事情があるわけだし」
 押されて声は尻すぼみになる。亜理紗の勢いは止まらない。
「まさか、気後れしてんじゃないでしょうね!?紺野が付き合ってるのは仕方なくだとか思っ、」
「亜理紗」
 勢いをたしなめたのは琢巳だ。亜理紗も流石に言い過ぎたと一瞬は淀んだが。
「と、とにかく!納得いかないってーの!紺野の彼女はあんたでしょっ!葵!」すぐさま再燃。
 机を叩く亜理紗の手は赤くなっていた。
 ことの発端は葵の彼氏である遥の安請け合い(とは亜理紗の言い方ではあるが)だった。他校の一学年下、本多綾が唐突に依頼をしてきたのだ。遥に兄代わりをしてほしいのだと。
 事情を聞くところによれば昨年亡くなった兄に酷似しているのだという。仲が良かっただけに現実が受け入れられず、遥を見つけた時には兄はやはり生きていたのだと思ったらしい。
 見つけるなり飛び付かれた遥は事情を聞き、自分は兄ではないし、現実を受け入れてもらうためにも、しばらく交流をもつことを決めた。
 亜理紗の憤慨は現況に納得がいってないのに加えて、本多綾の遥への接し方だ。そして、それに対する葵の対応にだった。
 飛び付かれ依頼をされるまで隣にいながら、遥が受諾するのに異を唱えなかったことだ。
 付き合いが長いだけに、平気なのは見せ掛けだけだと亜理紗には判るのだが、それを堂々と主張できる立場にいながら、しないことだ。歯痒くて仕方ない。
 一般的に考えても兄弟であそこまで仲がいいとは考えにくい、というほどの接近のしようだ。兄を亡くして寂しさを埋める為に必要以上にそうなってしまう、の程度を差し引きしても、だ。
 傍目から見て不自然窮まりない。というのが亜理紗の見解で。
 学校が違うので放課後にやってくるのだが、毎日きては遥を占領することにも不満だ。というのも亜理紗の言い分なのだが。
 葵はこうして何度か怒られているが曖昧に笑うだけに留めている。葵なりの考えあっての黙殺なのだろうが、それを親友である自分に話してくれないことも不満だ。というか、そこが一番不満なのかもしれない。とは、琢巳の見解だ。
 とにもかくにも。
 本当は嫌なのだと主張しないことも、遥がそれに気づいてないことも不満だった。付き合う前、葵は辛い想いをした。付き合ってからは幸せになってほしいではないか。
「お。また来てる」
 琢巳は亜理紗の怒りに被せるにはあまりにも能天気な声を出す。怒りの延長で睨まれてもどこ吹く風だ。
「お。手ぇ繋いだ」
 葵の肩がぴくりと動く。が、琢巳にならって窓から外を見ようとしない。石のように椅子に座り込んでいる。代わりに、最初の暢気な声にいち早く反応した亜理紗は窓にべったり貼り付いていた。
 いつものように校門で待ち伏せしていた本多綾が遥を捕獲している姿があった。
「ほっといていいわけ。あれじゃ妹面とゆーより彼女面だよ」
 葵は亜理紗の目を見つめるだけで肯定も否定も無しだ。
 追い打ちするように琢巳も口を開く。「確かに、噂もたってるしなー」
 葵とは破局し遥は他校の子付き合ってる、というお決まりの噂だ。上の学年にまで広がっていて、沙月が亜理紗を尋ねてきたくらいだ。葵に直接尋ねないのは、沙月の気遣いだろう。
「事情知らない人が勝手に言ってるだけだよ」
 大人ぶった口調の割に表情に不安が有り体になっている。遥の前でもそれを見せればいいのに、と思ってしまう表情だ。
「葵、」
 追撃しようと開きかけた亜理紗を、葵は咄嗟に遮る。
「遥言ってたよ。相当仲のいい兄弟だったらしくて、あんな感じが当たり前だったんだって」
 亜理紗は再び机をはたく。さっきよりは若干柔らかい所作にはなったが、憤りはまだまだ進行形だ。
「紺野だって聞いた話なだけで実際知ってるわけじゃない」
 まったくもって反論できない葵を庇うつもりではなかっただろうが、琢巳は「榊に言ったってしゃーねーべ」ひらひらと手を振って亜理紗をたしなめた。
「榊は平気なんか?彼氏が他の女とあんなベタベタしてて」
 ついと真剣な顔を向けられ葵は更に詰まる。けれど目線を逸らさず真っすぐに返した。
「無下にできない遥の気持ち、尊重したいし」
 それを向けられた琢巳はといえば、ふうん、と呆れとも興味なさげともとれる息を吐き、再び外へと顔を戻す。
「あ。キスした」
 ばん、と快音。
 小さな風が捲き起こり、琢巳と亜理紗の髪を小さく撫でた。
 二人の間に突入していた葵は現況を確かめ、琢巳を斜に見る。窓についた手をきゅっと握り、脇へと下ろした。
 本多綾が遥と腕を組んでいるところだった。
「すっかり遥も慣れてんなー」
 初めこそ戸惑い拒否を示していた遥も、今では根負けして腕組みは認めているらしい。
「全然平気じゃないじゃん」
 口調は軽いが、琢巳の眼差しは真摯そのものだ。
「意地悪」葵は小さくぼやく。
 この友人たちがやんや言うのは心配してるからこそだから、文句を言えるわけもない。
「そんな羨ましそうな顔するくらいなら、嫌だって一言言えばいーんじゃないの?我慢する必要がどこにあんの」
「羨ましい顔してる?」
 意外だと言わんばかりの表情は一瞬だけ見え、掻き消えた。
「うん…。確かに羨ましいかもね。あの身長差」
「は?」
 妙に納得顔かと思えば論点のずれている親友に亜理紗は遠慮なき溜息を吐く。
「葵、あんたやっぱり、紺野が仕方なく自分と付き合ってるとか思ってるわけ」
「遥はそんないい加減な奴じゃないよ。けど、」
「けど?」
「うん、だけど、嫌だろーな、とは思う。遥だって背が低いわけじゃないのに、あたし並んじゃうわけだから」
「榊はそれ、自分のコンプレックス?あいつの背があればいいのに、とか思う?」
 琢巳に改めて聞かれるとは思ってもみなかった質問に葵は純粋に驚く。
「思わないよ。でも男心としてはそうなのかなって」
 葵の中では小西彩のことが凝りとして残っているのだろうか。彼女は葵よりずっと女の子らしい身長だ。遥とバランスがいい。
 遥が葵の想いをはぐらかすためについていた適当な理想を、未だに引っ掛かけているのだろうか。
「あんたと付き合うことは紺野が決めたことでしょ。引け目感じる必要はない」
「それは違うよ、柴ちゃん。あたしは引け目なんて感じてないし、遥の中の基準に身長は無関係だと思いたい…じゃなくて、無関係だから。ただ、均等でいれないのが少し悲しいとゆーか」
「均等?」
「ほら、天秤だよ。両端に載せて重さ量るやつ。想いの重さが、違う。うちらは傾いてる」
 思いっ切り、ね。仕方ないけど、と細く笑う。
「付き合いだしたらどうするつもり?」
 唐突に亜理紗は“当人が考えないようにしていて、周囲も当人には言わないだろう”質問をぶつける。ぶつけられた方はといえば、言われないだろうと油断してただけに面食らう。
 亜理紗がこういうことを平然と聞ける無神経な性質の持ち主じゃないことを知ってるだけに、怒りの頂点に登頂しきっていることを悟る。
「それは…嫌だけど…」
 葵は俯き呟く。きゅっと唇を引き結び、亜理紗を直視する。
「遥の気持ちが固まってしまったのなら、仕方ない。…よね。すっごく泣くだろうけど。遥の気持ちは、遥のものだから」
 そう、と呟き、亜理紗は思い巡らせる。
「判った。最悪そうなったら胸貸す」
 あたしはアンタの味方だからね、と。掌でばんと胸を叩いた。
「んじゃー俺も貸しちゃる。ぎゅうって抱きしめよーじゃないか。どーんとこい!」
 琢巳は両腕を広げおちゃらけた。
 葵は「ありがと」と緩やかに笑みを返す。
「じゃあ僕は、彼氏に立候補していいかな」
 一斉に声のした方へと三人の視線が集中する。姿を認め同時に声が揃う。「沙月先輩」
戸口に片手をかけていた沙月は、相変わらずの穏やかな空気を纏っていた。
「まだ葵を好きなんですか」
 遠慮無き質問を先輩にまで亜理紗は投げ掛けた。投げられた方はといえば、驚きもせずいたって穏やかなまま口を開いた。
「諦めるとは言ったけど、僕は器用じゃないからね。簡単に切り換えはつかないよ。それより聞いた話なんだけど…」
 沙月の情報提供が終わるやいなや、それまでとは比べものにならない亜理紗の怒号が教室を揺らした。
 強烈な視線を外に向け、目標がいなくなっていることに舌打ちし、鞄をひったくり抱えると、そのままの勢いで教室から飛び出して行った。
 止めるべくしてか、興をそそられただけなのか。とにかく琢巳は亜理紗の後に続き、つられて葵も追い掛ける。


[短編掲載中]