誰一人としていない広々とした場所に、ぽつりと残されているものに視線は釘付けになった。
 目をつぶれば、今でも鮮やかに思い出せる。夢中になって跳んでいた頃の情景。
 あの頃の自分に大切だったのは、大会に出て賞をもらうよりも、空に溶け込む浮遊感と、跳んでバーが落ちなかった時の、感動に似た感情だった。
 刹那の時間、地を離れ、青い空に包まれているような解放感。
 確かにあの頃、青空が大好きだった。
「しまい忘れ?」
 言いながら、違う、と思っていた。隣で並んで立つ良尚は緩やかに笑む。
「お願いしたんだ。使わせてくれって」
「跳ぶ、の?」
 半信半疑で問う。
 バーの調節を始めていた良尚は無言で笑顔をくれた。
「ねぇ、脚…大丈夫なの?」
 思い描くだけだった姿が見られる。単純にそれだけを考えれば、こんなにも嬉しいことはないのだけれど。
 まだ松葉杖が完全にとれたわけではない。完治していないのは明白な事実で。
 止めなければと口を開きかけ、自信にも似た満ち溢れた表情に遮られる。
「…見てて」
 大丈夫だ、と言われた気がした。
 真っ直ぐな瞳でバーを見つめ、良尚は走り出した。

 映画のワンシーンのようだった。あまりにも綺麗で、感動的な。
 空に溶けるかと、思った。

 良尚は落ちたそのままの格好で動かない。慌てて走り寄ると、両手をめいっぱい広げてマットに寝転がっている。満面の笑みで華保を見上げた。
 無邪気な笑顔が『ナオくん』の面影と重なる。
「見てた?」
「…うん」
「バー落ちちゃったけどな。ま、なかなか上出来だろ」
「すごく、綺麗だった」
 滑らかなフォーム。大気に溶けてしまいそうで、そのまま消えてしまうのではないかと、少し怖くなった。
「さんきゅー」
 華保がマットの端に腰掛けると、良尚は上半身を起こした。
「すごくね…感動した…」
「おいー、なんで泣くんだよっ」
 様々な感情が綯い交ぜになって混沌とする。
「…ごめん」
 乱暴に目を擦り、涙を止めようとした。あがきも空しく、次から次へと出てきてしまう。
「華保―…、泣かれると弱いんだって」
 ポンポンと宥めるように頭を撫でる。手のぬくもりに、優しさが溢れてる。
 しばらくそうして、華保が顔をあげられないままでいるのを、良尚は静かに見守っていた。
 時間が穏やかに、優しく、二人を包み込んでいたのだけど。
「ってぇ…」
「どうしたの!?」
 良尚はしかめっ面で脚を押さえていた。
「完治していないんだよねっ!?」
 痛みが治まるまで動かず凌いでいる。
 相当無理をしたのではないだろうか。おろおろとするしかないのがもどかしい。
 止めるべきだった、などと後悔しても始まらない。自分を責め立ててやりたい気分だった。
「まだ、だな」
 舌を出して苦笑い。痛みがひどいのか、額に汗が滲み出ていた。
「…んで?……なんで、こんな無茶…」
「待てなかった」
 何食わぬ顔を作ろうとして、失敗していた。
「待ちきれなかった」同じことを二度言い、笑う。
 うろたえる華保とは対照的だった。
「…だって、いくら跳びたかったからって…無理したら取り返しのつかないことになるかもしれないんだよ!?」
 悪化したら?これが原因で、完治が不可能になったら?
 不安なことばかりが頭の中を駆け巡る。
「違う」
「え?」
「そうじゃないんだ」
 良尚の真剣な目が、華保を見つめる。真っ直ぐにものを見る、華保が好きな双眸。
 その双眸がにっこり微笑んだ次の瞬間、ぐいと引き寄せられた。良尚の顔が耳のすぐ傍にある。いきなりの急接近に、鼓動が暴れ出していた。
「約束する」
「……良尚?」
「絶対、還るから。跳んでみせるから」
「…うん」
「だからこれは、まず一歩なんだ」
「一歩?」
「そう。真っ先に、華保にみてほしかった」
 良尚の決意は充分に伝わっていた。ありがとう、と呟く。
「ずっと俺の傍に、いてくれる?」
 抱き締める腕が強張っている。緊張しているのだと、伝わる。
 すぐに返事がないのを不安ととったのか、心情が顕著にでている声音で華保を呼ぶ。
 様々な懐古が押し寄せていて、たくさん傷つけたのに、たくさん嫌な思いをさせたのに、総てを帳消しにして良尚がこうしていてくれる奇跡に、ひどく泣きたくなった。
 感情が喉の奥で詰まって、声にするのを邪魔している。
 再度呼ばれ、身体を離そうとする動きが読めて、良尚を掴む手に力を入れて顔をうずめた。
 今の顔を見られるのは、まずい。自分がどんな表情でいるかなんて、容易に想像がつく。
「――華保?」
「う、ん…」
 ようやと口に出来た肯定は、歯切れ悪く吐き出された。
「んだよっ、不安になるような言い方すんなよなぁ。怪我のこと気にしてんなら、」
「違うの。あたしだって…一緒に、いたい」
 良尚が抱き締めてくれたあの日から、脚は痛くならないし空だって前ほど嫌いじゃない。強くなれたって思う。――けどそれは、良尚が傍にいてくれるからで、本物じゃない。
 そう、拙くぎこちなく、理由を口にした。
 ひどく後ろ向きな発言を良尚が厭うと知っていて、黙っていられなかった。
「俺が離れていくかも、って心配してんのか?離れたりしないよ」
「良尚が言うことなら、信じられる。信じてる」
 続けようとして、口籠もる。
 良尚は名前を呼んで、促した。
「――怖い、んだ」
「怖い?」
「――依存しているのが、怖い。一人で立っていられないってことだし、寄り掛かっているだけ」
 そうして依存することで、離れなくなることで、押し潰してしまうかもしれなくて。
 黙り込まれた数秒が何分にも感じた。まじまじと華保を見つめる目から逃げ出したくなる。小さく息を吐かれ、身を堅くした。
「なぁんだ」予想を大きく外して、軽やかな声が降った。「んなもん、お互いさまだろ。俺は、華保がいてくれるから頑張れる。力をもらってる。頼りにすんの、なにが悪いんだよ」
 だけど、と反発はできなかった。
「それにさ、それって…」
 いったん言葉をきり、華保の瞳を覗き込む。
「それって、俺にめちゃくちゃ惚れてるってことだよな?」
 本当に、心底嬉しそうに綻ぶ。
 自分が彼にしてあげられることなんて、そう有りはしないのかもしれない。けれどこうして傍にいられることを嬉しいと言ってくれる。隣にいてくれるだけで、いいのだと。
 こんなにも幸せな気持ちをくれる人に、できる限りのことをあげたい。
 だから言う。
 良尚の強い瞳が華保を安心させてくれるみたいに、華保も真っ直ぐに想いを。
 それが彼へ、安心をあげられることだと、知っているから。
「……大好きだよ、良尚」




[短編掲載中]