ベランダへと続く大きな窓に近づき、ノセはカーテンの隙間を開けた。ぽつりと淵に座る背中が見える。
 外はようやと陽が昇ったばかりの時刻。薄い青の空が広がっている。陽射しはあるが、秋の寒さは目に見えるほどに明白だった。毛布にくるまる背中の向こうに、吐き出された白い息が立ち昇り、霧散する。
 静かに窓をスライドさせると、カラカラと軽やかな音を立てた。とたん、真冬かとまごうほどの冷風が室内に雪崩れ込んできた。パジャマ代わりに、と侑希から借りたスウェットを突き抜けて、冷感が肌を刺す。
「さっぶっ…!」
 自然、肩や背中に力が入り、身を縮ませた。
「ノセくん?」
 物音に振り返った毛布の中の人物は微苦笑を浮かべていた。
「那央さん、おはよ」
 ベランダ用に置かれているサンダルをつっかけて、腕をさすりつつ近づいていく。
「おはよー。早起きだね」
 この寒さの中にどれくらいの時間座っていたのかは知らないが、那央の笑顔は元気そのものだ。
「くしゃみしとったよね?寒いんとちゃうの?」
「あ、ごめん。それで起きちゃったんだ?」
「普段やったら目ぇ覚めへんとこやけど」
 今もベッドの中でぬくぬくと眠る侑希と同様、布団に潜ったままだっただろう。小さなくしゃみに目覚め、しかもこうして起きだしているのはかなり稀有な行動だった。
 部屋から見下ろした時、那央の姿が確認できて、無意識のうちに階下に足が歩き出していた。
 那央とゆっくり話をしてみたい気持ちが、勝手に身体を動かしたのかもしれない。
「隣ええ?」
「もちろん。って、そんな格好じゃ風邪ひくよ?入る?」
 さも当たり前のように那央はくるまっていた毛布の片側を広げた。
「えっ?」
 座ろうと屈みかけた格好のまま凝固する。その驚き方がツボだったのか、那央はくすくすと笑い、「ほら、早く早く。寒いってば」とノセの腕を引っ張った。
 戸惑っていた上に予想外の引力に、いとも簡単に着座してしまう。寒いよねー、などと屈託なく笑顔を向けられると、躊躇った自分が間違っているのかと錯覚を起こしそうになる。
 侑希に怒られるやろか。とよぎるも、今のノセには寒さを凌げる方が遥かに重要だった。
 一度ぬくもりを知ってしまえば、手放すのは容易ではなく。
「ふわぁ、ぬっくぅ」
 湯船に浸かった瞬間のような気持ちよさを連想させる。顔を埋めるように身体を縮めるとすぐ隣から笑音が聞こえてきた。
「二人だともっとあったかくなった。顔とかは冷えまくりだけど」
 ほんと寒い、と零し、つい、と顔を上げた。つられて、ノセも視線を天に移す。
 侑希の部屋から見掛けた時も空を見ていたな、と思い出し、そこに答えがあるのだと探してみるも、これといって何かがある様子はない。
「なにしてたん?こんな寒い中」
「月見てた」
 わざわざ毛布かぶってまで外で見るほどのことだろうか、と思う。ノセの目には何の変哲のないものに映る。空想癖でもあるんだろうか、と訝った矢先、「怪しい奴、って思ったでしょ」と那央が笑う。
 顔に出てただろうか、と焦り首を振る。那央は頓着していない様子でいた。
「透けてるみたいじゃない?この時期の、朝方の月が一番綺麗で好きなんだ」
 薄青に鎮座する月は、満月が空に溶けかけているかのようで。
「……確かに」
 ノセの呟きに、満足げに笑んだのが、気配で判った。
 彼女には、こんな風に、穏やかな時間が必要なのかもしれない。
 そう考えれば、こんな寒気の中で天体観測するという酔狂な行為が、とても大切な儀式に感じられるから不思議だ。
「今朝は冷え込みがきついよぉ?」
 ノセに聞かせるように言うくせに、全く返答を期待していない風だった。
 もぞり、と動いて、那央は毛布の隙間から手を出す。正確には、手袋がはめられた手。両手で頬を挟み、まどろむように埋めた。
「那央さん、ずっこい」
「ずるくないって。準備万端だね、っていうの、これは。片方貸そうか?」
「…いい、平気」
 数秒迷って断る。
 こんな、いかにも『仲よさげ』なところを万が一見つかったら後で何を言われるやら。もうすでにその状況にあるのかもしれないが、このぬくもりから抜け出す勇気はない。
「ね、ぼっこ手袋って知ってる?」
 自身の顔から引き離した手袋を見つめ、問い掛けてくる。
「ぼっこ?」
「あ、これって北海道弁だ?ミトン型の手袋のことを指すんだけどね」
「親指と他四本とで分かれてるやつ?」
「そう。小さい頃は履き易いって理由でほとんどの子がぼっこ手袋で」
 那央は思い出しているのか、楽しそうにしている。
「履く?手袋を?」
「それも北海道弁だ?話してるとこーゆうのが判って面白いよね」
 ペンションを営む両親の元で育った彼女は、宿泊客と話をするのが好きそうだった。明るい子、というのが第一印象で、その後の彼女を見ていてもその印象は褪せてはいない。
 大切な人を過去に失っているとは、信じ難かった。
「でね」那央は舵を戻す。「手袋に紐をつけて繋ぐのね。で、上着の袖に通しておくと失くすことがない、って寸法なんだけど、それでも失くす奴がいて」
「純平さん?」
「…うん、ご明答」
 一瞬だけ翳り、すぐさま元に戻る。やはり完全には吹っ切れていないのだな、と悟る。
「侑希から聞いた?」
「大雑把には。あんま言いたがらんかって詳しいことは…」
「そっか。純平はさ、小さい頃からやんちゃばっかしてるような奴で、冬が好きだったの。学校帰りに鞄背負ったまま雪合戦とか始めて、べっちゃべちゃになって帰るのなんてざらだったなぁ」
 慈しみ懐かしむ目をして、月を見つめる。彼女の瞳には、彼が映っているのだろうか。
 優しい思い出を口にする時、人はこんなにも柔らかな表情になるのだと、那央の横顔を見て思う。
「手袋が毛糸でできてたりすると雪球作るときにくっつくのね。繰り返してるうちにコテコテになっちゃって、雪球も作りづらくなって、そのうち素手でやりだすの」
「素手で?」素っ頓狂な声を出してしまう。そしてしかめっ面を晒した。「考えられへん」
「さぁ帰ろうか、ってなって手袋を失くしてることに気づいて、探しても見つからなくて。怒られるってことよりも、家に帰るまで寒いのが厭だ、とか言って」
 自業自得なのにね、と可笑しそうにする。
「それで、どうしたん?」
「あたしの片方貸してあげたんだよね。余った手を繋いで純平のポケットにつっこんで」
 情景を思い浮かべてみれば微笑ましくもある。
 那央と純平の間には、数え切れないほどの思い出があるのだろう。それらを過去と割り切って、亡くなった者を吹っ切るなど、簡単ではない。
「なにもさ、そんなまどろっこしいことしなくても、純平が自分のポケットに手を入れて帰れば済む話なのに」
 あの時は思いつかなかったんだよねー、と明るく話す那央を見て、後先考えずに口を開いていた。
「まだ、好きなん?」
「うん」
 返事は即答だった。迷いなど、微塵もなく。いっそ潔いほどに。
 ふ、と息が漏れて、笑ったのかと見遣った先にあったのは、自嘲気味な笑みで。
「この、自分の気持ちに気づいたのは、いなくなった後なんだけどね」
 深く深く沈んで、誰にも救えないくらいの暗闇に堕ちていた頃、侑希と出逢った。
 正直、那央の存在と抱えている闇を聞いて、心配した。侑希が抱える闇も、それに同調し、引き摺られてしまうのではないかと。
「…そんな顔、しないでくれる?」
 ノセに向けた那央の表情は、それまでのものを一掃していた。明暗がくるくる変化する彼女の表情は、心情のそのままを現しているのかもしれない。
 己の思考を見透かされたようで、恥ずかしい。
「侑希のことどう思っとるか、聞いてええ?」
「騒がしい奴」
 これまたあっさりと即答だ。首肯しつつ、苦笑を洩らす。
「ノセくんといてもテンションの高さに変化ないから、こっち来る前と変わってないんだろーね。あとは…生意気、かな」
 からから笑われれば、そうですね、としか言いようがない。
「でも、救われた。…と思う」
 唐突に、凛と、真摯に、声を放つ。
「那央さん?」
 あまりの唐突さに、たじろぐ。
「思い出に縋って、立ち止まったり、急いで純平の元へ逝こうとは、思わなくなった」
 彼女をこちらに繋ぐ糸の一部に、侑希もなれたということだろうか。
 ノセは返す言葉を失い、じっと那央を見つめた。
「侑希は、いい奴だよね」
 那央の涼やかな笑顔が朝日に映えて、一瞬見惚れてしまった。
「そう、やな」
「騒がしいけど」
 またもやころりと表情を変えた。悪戯っ子みたいに笑えば、年下にも見える。
 せやな、と返し、一緒になって笑う。
 侑希に伝えてやりたい気もするけれど、喜ぶのが想像つく分、癪な気もする。
 空に溶け込んでいく月を見上げて、やっぱり黙っていようか、と心の中で意地悪に笑んだ。


[短編掲載中]