侑希姉。
 実に不本意ながらすっかり定着してしまった那央の渾名である。
 学校の職員室で、今まさに目の前で、担任の庄野が口にした。すかさず抗議を込めて睨みつけておく。
 高校三年生の一月後半ともなれば自由登校に入っていた。受験生ではあるものの補習日程を消化した那央も本来であれば登校せず自宅学習に入っている時期ではある。先生に質問があって登校したわけでもない。
 ひょっこり職員室に顔を出した那央に、庄野はどこから入手したのか渾名を揶揄たっぷりに使った。機会を窺っていたのだと知れる表情だ。
 放課後に近い授業中の時間帯なので室内に職員の姿は少ない。庄野には昔馴染みの気安さが態度に出ていた。
 隣の席の椅子を拝借して庄野の方へ近づけて座る。睨み効果なのか、若干悪びれた顔つきになっていた。生徒間では容易く伝達するような事柄でも耳に入ってくるほどに『慕われる側の教師』なのだな、とこういうことがある度に実感する。
 庄野は一つ咳払いをすると、用事でもあったのか、と矛先を変えた。判り易い態に思わず笑み零れる。
「呼び出し、というか、お迎えですね。今日、侑希の誕生日なんですよ。で、学校で待ち合わせることになったので」
 誕生日を知ったのはつい先週のことだ。母親から当日は何作ったらいいかな、それともお友達と過ごすのかなとか、とにかくどうするのか聞いておいてねと丸投げされた。
 以前に一度訊いたことがあったな、有耶無耶にされたんだっけ、とその時になって思い出した。
「ああ、誕生日な。そうだったな」
 前から知ってる風の口調だ。改めて煙に巻かれた時が蘇り、心持ち面白くない気分まで蘇る。最終的に聞き出した侑希の『隠したかった理由』に、すっきりできていない所為もあるからだろうか。
「担任でもない先生までが知ってることなのに同居人がついこの間まで知らなかったってどうですか。前に訊いた時にはぐらかされたんですよ、あたし」
 自然非難めいた視線を投げてしまっていた。相手を履き違えているだろう、と怒り出さない確信に甘えてる証拠だ。昔から知ってる兄の友人でなくとも庄野は気安い相手だった。
 気安さに乗っかって言葉が止まらない。理由を聞いてもなかなか白状しなかった時のもどかしさまでもが蘇って拍車をかけていた。
 那央だけには隠そうとしていた、という事実が尚更気に入らない。
「教えなかったのには侑希なりの理由があるらしいんですよ。なんだと思います?」疑問系にしておきながら間髪入れずに紡いだ。「年下扱いされるからヤダった、ですよ。しかも、『拒否った理由、最近判ったんだよねー』とか、意味不明なこと付け足してみたり。じゃー今までは理由も判らず隠してたのか、って話ですよ。なんですかそれは、って感じじゃないですか」
 もはや庄野を責めてるような語調になっていた。俺に言われてもなぁ、とのんびりとした呟きが当然返ってくる。
 別段常日頃から年下扱いをしている憶えは那央の側にはない。いうなれば向こうが勝手に気にしているだけのことなのだ。
 侑希曰く、早生まれだと学年は一つでも産まれ年では二つ下ってことだから余計年下に思えちゃうだろ、とのこと。産まれた年なんて本人の努力でどうこうなるもんでもないんだし、と一蹴したら益々むくれた。それこそが年下アピールになってない?とはさすがに飲み込んだのだけれど。
「オトコゴコロが判ってないね、那央ちゃんは」
 兄のような眼差しで溜息混じりに言われても。しかも本人と同じ台詞。納得いかない面持ちが顕著だったのか、庄野は小さく吹き出した。
「渾名は彼にとっても面白くないってこと」
「余計判りません」
「まーまー」宥めるように庄野は言う。「この後は買物でも行くの?」
 むくれたまま首を傾げる。
 プレゼントの要望を尋ねたら「当日学校に迎えに来てよ。その時に要求します」だった。いくら用意すればいいか判らないじゃないか、との文句には「高額要求なんてしないから。ヘーキヘーキ」だった。
 誕生日隠匿理由を聞き出すにも粘られたことを思うと追究する気にはなれなかった。那央が定めた額を超えるようなら足出た分は自腹ということで勝手に決定とした。文句は言わせまい。
 流れを簡単に話し断言する那央に苦笑を見せつつも庄野はどこか腑に落ちてる表情だった。
「合格したら春から札幌だよね。篤んとこに住むの?」
 八つ当たりを受け止めてもらったら少し気分が沈静していた。気持ちを切り換えて今度はしっかりと頷いた。
「お兄と住むことになりそうですけど部屋は違うとこになりますね。今の部屋は二人だと手狭だからファミリーサイズ捜すって、」
「はりきってた?」
 続けようとしていたあとの台詞を庄野はかっ攫った。伊達に長年の友ではない。苦笑を乗せて再び頷く。
「まだ合格もしてないのにすでに候補絞り始めてて、近いうち下見に行くことになりそうです」
「3月に入ればもっと物件だって動くだろうに」
 脳裏に光景でも浮かべているのか、庄野も呆れた風に笑う。
「うちの親もそう言ったんですけどね。家賃負担なしで仮押さえとかできる不動産もあるみたいで、動く時期は競争も激しいから落ち着かん、というのがお兄の言い分です」
 あいつらしい意見だ、と呆れている。「彼女できても妹最優先は変わりなし、か」
「振られたりしないか心配ですよ、妹としては」
「逆恨みとかされないようにね」
 庄野は他人事然とした口調で茶化してくる。実に楽しそうに映るのは僻み根性の所為だろうか。
「やめて下さいよぉ。不吉な」
 思わず顔をしかめた。全く考えていなかった、わけではない指摘なだけに、本気で嫌がる。
「冗談はさておき。ご両親は安心だろうな。息子と違って娘の一人暮らしは何かと気を揉むだろうし」
「澤樹家全員一致意見です、それ。お兄は一人暮らし絶対反対の姿勢だし、親はお兄の意見を後押しする恰好でした。家賃は全額お兄持ちとかで決着しちゃってて。あたしも反対する理由なんて特にないからいいんですけど。親が気持ち的にも経済的にも負担減るっていうならそれに越したことないですし。バイトして少しでも家賃の足しにできればお兄にもそんなに負担させなくて済みそうですしね」
「シスコンも程度によっては考えもんだな。まー、結婚考えるようになったら変わるだろ」
 だといいんですけどね、と同意して息を吐く。吐息に含まれる杞憂を感じてか、庄野は他人事の態を崩さぬまま笑った。
 妹を気に掛けすぎる兄にしてしまったのは自分だ。判っている。責任は自分にある。それでも、ほんの少しくらいは変わったと、思えるようになった。那央が、自身の足で前に進み始めたと周囲に示せたからだと、信じたい。
 新しい地で、しっかりと歩いていることを間近で見せることができたなら、きっともっと変わっていける。那央が考える、自分にしかできない恩返しの仕方だった。
「未来のお嫁さんに虐められないよう祈ってて下さい」冗談めかして言う。
「その前に振られるって」庄野からも冗談が返ってくる。
 目を合わせ、ひとしきり笑った。無理することなく笑顔になれることに、感謝する。
「……よかった。笑えるようになったよな。安心したよ」
 急にしみじみと言うものだから、本当に不意打ちで。喉の奥を引き締めて込み上げそうになる感情を抑えた。
 数秒間、口を開くことなく目を覗き込んでくる庄野の物言いたげな双眸に根負けする。
「今から言うこと、絶対本人には言わないで下さいね。調子に乗っちゃうから」
 照れ臭さから可愛げない前置きが飛び出す。庄野にはお見通しな事実に苦るしかない。
 すでに答えを聞いたような面持ちで那央の言葉を待っているところが何とも悔しい。だから、ということにしておこう。
「侑希のおかげですっ」
 続けた声は半ばやけっぱちに響いた。庄野の満足げな表情にますます羞恥が込み上げる。
「水原くんは純平に似てるとこあるよな」
 何気なく放たれた意見に鼓動が鳴る。
 初対面で、錯覚した。容姿ではないどこか、人間性の奥深くにあるものが、錯覚を招いた。時折それは顔を覗かせ、その度に那央の心をさざめかせた。
 明確な言葉にするにはあまりにも不確かで巧く言い表す言葉が見つけられない。素直に認めるのもなんだか癪で。
「人間を大きく分類したらあの二人は同じ箱ですね。騒々しい、って箱。だから似てるって思うんですよ、きっと」
 捲くし立てる速さで吐き出した那央を、相変わらずお見通しの眼差しのままで庄野は同意した。顔が熱いのは暖房が効き過ぎてる所為だ。きっと、そう。
 終業のチャイムが鳴って、那央の着信音が鳴った。小窓に侑希の名前が表示される。
「早っ」
 二人同時に覗き込んでいて、声も揃った。
「呼び出しに応じてきます」
 逃げ出す口実にすかさず喰い付く。立ち上がり椅子を元の位置に戻した。庄野は座ったまま手を振った。


 玄関を改めての待ち合わせ場所とし、那央が着いた時にはすでに侑希は人待ち顔だった。忠犬ハチ公、という言葉が浮かび、可笑しくなる。
「どっか行きたいとこでもあるの?」
 歩き出しながら校門を出る前に問う。返答によっては方角が違ってくるからなのだが、侑希の足取りに迷いはなかった。彼の中では予定は決まっているのだろう。問いに対する返事はなく、代わりに口端が少し持ち上がった。
 校門を過ぎ、行く手には道路と自然しかない、という方角に足を向け淀みなく進んでいく。慌ててあとを追うも上機嫌な横顔が拝めるだけだった。
「侑希っ?」
「歩いて一緒に帰りたい」
「プレゼントってそれ?」
 素っ頓狂な那央に対し普段通りな侑希は弾けるように「うんっ」と頷いた。一瞬呆気にとられ、慌てて意識を取り戻す。
「寒いのに?」
「だって俺の誕生日冬だもん」
「……一応これでも受験生なんだけど?」
「志望校余裕で合格圏内でしょ」
 取り付く島もない。ずんずん進む侑希を小走りで追い掛ける。
「油断大敵って辞書でひいてみてよ。そのまま自分の辞書に登録しとくといいんじゃない。というか、風邪ひいたらどうしてくれんのって言ってんの」
 モラルに訴えかけてみても何処吹く風状態だ。いいようにあしらわれてる感は否めない。
「道産子なんだから大丈夫だよ」
「どんな根拠よ」
「万が一風邪ひいたら献身的な看護を約束する」
 進学に関して、邪魔しないまでも応援する素振りは全く無い。当然「受験生だから」の特別扱いなんて一切無かった。
「いらないっ」
 ぷい、と顔を背けた直後に「あっ」と聞こえ、反射で顔を戻してしまう。侑希はばたばたと鞄やらコートのポケットやらをまさぐっていた。
「手袋忘れた!」
 声張ることでもないじゃないか、と呆れ、学校を振り返る。戻るには多少気だるい距離まで来ていたが戻れない距離でもない。
「やだ」
 まだ何も言ってないですが?と侑希を斜に見上げ、持ち上げかけた指を下ろす。
「戻んないよ。那央ちゃんの気が変わったらヤダもん」
 拗ねた子供口調になっている。これで年下扱いされたくないもないだろうに、と呆れる。学校まで戻ればバスで帰るって方法もあるな、とよぎったのは内緒だ。
 あくまで帰ると決めた方角に進んでいくので並んで歩く。寒い痛い冷たい、などと言いながら指先に息を吐きかけてるくらいなら戻ればいいのに。
 呆れたまま要望に付き合っていると目の前に手が出てきた。疑問符を浮かべて見遣る。
「手、繋ぎたい」
「やだ」まんま侑希の真似をして返す。
「ひどい。風邪ひいちゃうっ」侑希は大袈裟に嘆く。
「受験生じゃないから大丈夫。万が一ひいちゃっても母さんが看病してくれるよ」
「優しくない…」泣き真似もわざとらしい。
「だから戻ろって、」
「やだ」
 駄々を捏ねる子供よりタチ悪くない?
 しばらく無言で放置してたらどうでるか、と観察していたら、「誕生日なのになぁ。プレゼントなのにぃ」と盛大にいじけ出した。
「あ〜、もうっ。判った。はいはいはい」
 右手を浮かせた途端握られた。ほくほくしながら繋いだ手を自分のポケットに入れようとして、
「……入んない…」
 恨めしげに呟かれてもこれは那央の責任ではなく。ミトン型の手袋は毛糸製でしかも二重構造だ。あったかい代わりにモコモコとボリュームがある。
「いや。あたしの所為じゃないし」
 悔しがってるのが丸判りな視線でじっとり見つめられても困る。肩を落とした侑希は仕方ないといった風にして手を繋いだまま歩き出した。
 とぼとぼとした足取りはわざとらしいにもほどがあるのだけど。手を差し出した時の笑顔が本当に嬉しそうだったから。誕生日だしね。誰にともなく言い訳を胸の内でしておく。
 いったん繋いだ手を外す。手袋を脱いで侑希に差し出した。手を離されて悲しげな表情になり、それから手袋をきょとんと見つめる。意図を図りかねているのだろう。
「片っぽ貸すから。で、はい」
 素手になった方を見え易い位置まで持ち上げた。お尻に千切れんばかりに振られる尻尾が見えそうだ。あまりにも嬉しそうで、気持ちがもぞっ痒くなってくる。いそいそと那央の手袋をはめているのを眺めていると己の言動が恥ずかしくなってきた。
「うわ、ちっこい。ぴっちぴちだ。伸びちゃったらごめん」
 そう言う侑希は、本当に本当に嬉しそうで。
 こんな状態で繋いだりなんかしたら、一体どんな顔をすればいいのか判らない。取り止めようかと引っ込ませかけて、一瞬早く手を繋がれた。真っ直ぐに侑希を見ることはできなくて。あさっての方向に視線を泳がせた。
「これなら入るね」
 那央の右手はすっぽり包まれ侑希のコートのポケットに収まった。手袋するより何倍もあたたかい。
「こんな場面見られちゃったら噂になっちゃうねー?」
 からかうように言って、でも満更でもなさそうで。
 主導権握られっぱなしな感じは性に合わない。ついむきになって可愛げないことを口走る。
「考えたらさ、噂になって面倒な思いするの侑希じゃない?三年自由登校入ってるもん。あたしは補習完了してるし卒業式まで学校くる予定ないし」
 黙り込む侑希に、勝った、と内心勝ち誇った。のも束の間で終わった。
「面倒じゃない」
 聞き返すとむくれた調子で同じことを繰り返した。それからニヤリと不敵な笑みを刻む。
「むしろ誇張して自慢してやる」
「あることないこと言うの無しだからねっ!?」
「さーて、どうしよっかなぁ。卒業式が楽しみだねぇ?」
「ちょっ…、むかつく!」
 ポケットから手を引っこ抜こうとするも構えていたようにびくともしない。涼やかな横顔が憎たらしい。
「あったかいね〜」
「ほんとにやめてよっ?」
「はいはい」
「あーもうっ!ほんっとむかつく」
 かくなる上は強く握って痛がらせてやる。目一杯力を込めてやったのに。涼やかな顔は涼やかなまま。
 那央は悔しさを上乗せし、侑希の笑みは家に着くまで継続された。




[短編掲載中]