軽やかな足音が廊下を駆け抜ける。
 日に一度は必ず響く音。多い日は数度。一日だってさぼったことはない。彼女にとって鍛錬と『それ』だけは、欠くことの出来ない日課だった。
 習慣化したのは、今から一年ほど前になる。
 城内の間取りからして、この扉の向こうにある回廊を通るのは必至だった。足音が近づき、この部屋を素通りするのを幾度となく耳にしたことか。
 丁度、研学の合間に休息を入れたところだった。
 本日もまた近づいてくる足取りの軽やかさに、少し苛立った。ちっともはかどらず気が滅入っていたから、などという稚拙な理由ではない。
 扉の方を見、少々乱暴気味に銀髪を掻き上げた。隔靴掻痒の色に碧眼が歪められ、カタンと音を鳴らして立ち上がる。
 勢いよく、扉を開け放つ。常人であればぶつかるであろうタイミングで。
「っと!危ないなっ」
 甘く可憐な少女の声が、まるで少年のような語調で言葉を発する。
 駆け足の惰性を吸収する為に声の主はとん、と扉に手をつき急停止した。呆れ顔が扉の陰から顔を出す。
「気をつけろ、タキ」
 美人は三日で飽きる、などと誰が言った愚言だろうか。目の前に現れた少女はいつでも見目麗しい。まだまだ少女の域を出ない年齢だというのに。
 歳をおう毎に、否、日毎美しさを増していく。
「そうだな。すまない」
 ぶっきらぼうに呟く。勿論わざとにそうしたのだから、本気で謝っているわけではない。
「なんだ。機嫌悪いな」
 さして頓着する様子もなく部屋の中を覗き込む。そして勝手に合点顔。
「煮詰まってるのか?」
 快活な言葉に揶揄する響きも若干含まれて、むっと眉をひそめた。
「…違う」
「じゃあ…、具合でも悪いとか。あとで薬持ってこようか」
「…要らない」
「なんなのだ、一体」
 タキの意図が読めず、だがそれに気分を害するでもなく、大きな瞳でタキを見上げ小首を傾げた。
 ぱっと顔を逸らされて、少女は小さく肩を竦めた。
「先を急ぐから、行くな?」
 じゃあ、と言って、少年の不機嫌をあっさり受け流して少女は去っていった。笑顔をお供に。長い髪をさらりと揺らし颯爽と駆けていく後ろ姿を見送る。
 少女の姿が角に消えた時、背後から溜息が聞こえた。
「ミウカはターニアの所へ?」
 耳に心地よく響く低い声。タキと同じ色を纏う長身の青年。
「そのようですね。兄様はどちらへ?」
「皇帝に呼ばれている。それよりも、タキ…」
「なんでしょうか」
 いや、と言って口を噤む。
 そそくさと去って行った少女を名残惜しそうに見送る弟が、多少なりとも不憫に思ってしまったのだ。
 鮮やかな赤銅を纏う少女――ミウカ。
 際限なき重圧を背負い、それでも尚、凛として。その姿は心を魅了してやまない。
 信じるものは明瞭で確かなものだけだった。そんな彼女が傾ぎ、信じ祈るようになったものがある。
 不確かで、あまりにも不明瞭なもの。
 ターニアの部屋には不思議な力が溢れているという。皇室付占者にとあてがわれたその部屋で、一心に彼女は祈りを捧げる。
 毎日欠かさず、足繁く通う。
 熱心すぎるそのさまは、彼女らしいと微笑ましくもあるのだが…。
 タキにとっては熱中しすぎるのが面白くないらしい。
 ともすれば『波紋を投げ掛ける者』に心酔しているようで。
 兄は弟の頭を小突く。
「やきもちも程々にしろ。女性に嫌われる」
 兄にしては珍しく、茶化す口調をとった。
「いいのです」
 弟はむすっとして口を尖らせる。多くの女性に好かれたいなどという願望はない。ただ一人に向き合ってもらえたら、それでいい。なのに、
 勘の鋭いミウカは思わぬところで鈍感だった。
「どうせ判りはしないのです」ボソリ呟く。

 当の本人は彼の憂鬱な理由に、気づきもしないのだから。


[短編掲載中]