息を切らし仰向けに寝転がった。
 年齢など無関係に容赦ない鍛錬が連日続いていた。これまでであったなら、片割れがいたから耐えられた。互いを信じ、支え合ってきた。
 半身を失って、これまで耐えられたものが不可能になっていた。躯的にも、精神的にも限界を超えている。

 ハルが死んだ。

 熱にうなされたのは自分だって同じだったというのに。
 渦巻く感情を巧く消化できずに時間だけが無意味に過ぎていく。


「…?」
 微かに聞こえてきた鳴き声に反応する。城内はすでに日常の慌ただしさを取り戻していた。なのに、ミウカのいる中庭だけは切り取られた空間みたいに静けさに包まれていた。喧騒が遥か遠くにあるようだった。
 風はなく、木の葉も芝も揺れない。そんな中での声だった。音のした方向を見遣る。ごく背の低い木立の一部が小さく動いた。そしてまた鳴く。
 鈍重な動作で躯を起こし、じっと観察するも、姿は確認できない。さきほどより弱くなった声にゆっくりと近づいていき、枝葉を掻き分けた。
 うずくまる小さな背中があった。全身を毛に覆われた小動物。耳をぴったりと伏せ、怯えた目付きでミウカを見つめている。そっと手を伸ばしてみた。ビクリと身じろぎするが逃げる様子はない。否、逃げたくとも逃げられなかったのだ。横腹に乾いた血がこびりついていた。
 強引に抱き抱えるのは躊躇われたが放っておくわけにもいかず、上衣を脱ぎ小動物の躯を包んだ。更に身を堅くしたが抵抗はない。それほどに弱っていたのだ。
 立場上膨大な量の文献を頭に叩き込んでいるミウカでも、実際に見るのは初めての相手だった。
 顔の割に大きな耳を持つ四足獣。柔らかな蜂蜜色の体毛は細く、長い尻尾の先まで覆いつくしていた。鼻から口のまわりと足先、そして尻尾の先だけが白い。成体でも人の両掌に乗るくらいの大きさにしか成長せず、性格は穏やかで臆病者。それ故、生息する地域から出てくることはまずない。人の気配があるところに姿を現すことなどない動物だった。まして城にいることなど。
 自身の手の中で震える小さな生命。弱く、儚く思えた。まるで、自分自身のようだと。
「あら、」
 突然声が降ってきて、思い切り躯がビクついた。瞬時に声の主が誰であるか判別できて、ゆるりと仰ぎ見る。
「あのっ…」
 このことは内密に、と続けようとしてミウカ同様に屈み込んだスラに言葉尻を奪われる。その微笑は、妹であるミウカの言いたいことを理解し黙諾を示していた。
「この子…。どうしてこんな所に?」
 静かに手を出した。顔だけを覗かせていた小動物は引っ込もうと僅かに顔を後退させる。
「怯えているのね」
「怪我をしているようです。典医に見せたらなんとかなると思いますか?」
「どうかしら。お願いしてみましょうか。…勿論父様には内緒で」
 片目をつぶってみせる姉に、ここ数日間で初めて喜色を露わにした笑顔を見せた。スラの胸中で、その笑顔がどれだけの安堵感をもたらしたか、当の本人は気づいていない。


 その子を、プンティと名付けた。
 宰相であるミウカの父は気難しさを絵に描いたような人物だった。父親にばれないよう介抱するには自室では困難で、コウキの部屋の一室に置かせてもらうことにした。
 彼にあてがわれている部屋の造りは他とは異なり、いくつもの大小の部屋が連なっている。彼自身そんな贅沢を楽しむ気質ではなく、大半の部屋をもてあまし、物も置かれていない部屋がいくつもあった。
 ミウカもスラもこれをきっかけに、皇子との距離を縮めることとなった。ひっきりなしに部屋に詰めることが多く、秘密を共有することは共犯者の心理みたいなものなのか、親密さは日毎濃さを増していった。
 それまでは宰相の娘といえど、皇族と接触する機会は少なかった。赤銅色を持つという事実だけが唯一、他の臣下よりも謁見の機会が多いというだけで。
 プンティの存在は間にある隔たりを殆ど無きものとした。
 彼の部屋を借りることで出入りは多くなり、ミウカが付き添えない時間帯はスラが看病にあたる。当初三人だけの内緒事だったのがある時タキに発見され、元々好奇心旺盛だったタキは自然と参加の流れとなった。
 怪我の回復に時間がかかったことが、結果として子供達の絆を築いていった。
 プンティが懐いてきたこともあって、ミウカに本当の笑顔が戻りつつあった。同時に、自身に目覚めていたもう一つの能力に自嘲することも多くなった。
 ゆるやかに、徐々にしか回復しないプンティの怪我。それに比べて、鍛錬でボロボロに疲れ果てようと怪我をしようと、大抵のものは翌日にはほぼ完治した。驚異的な回復力。
 自分だけが他とは違う。異質であると突き付けられる。
 半身を失い、大切な人が傍にいないことが、少女を孤独へと追いやる。特殊な力を持っている重みを分かち合えるのは、同じ境遇にある者のみ。
 それでも、進むしかない。立ち止まることは出来ない。一人になっても、闘い続けなければいけないのだ。…だから、強くならなければいけない。重責に負けるわけにはいかなかった。
 小さくて柔らかいプンティ。ミウカの姿を認めると長い尻尾を動かして、寄ろうと動く。愛しい存在。可愛い存在。大切に、護っていきたかった。
 回復しかけているように見えたプンティは、次の季節を待たずに永遠の眠りについた。


 銀髪の少年が自室でそれを見つけた時、碧眼が揺れた。
 皇帝になるべく教育を受けてきた者にとって、いかなる場合であっても心を乱すなどという行為は、例え一瞬でも許されるべきものではなかった。
 だが亡骸を前に、様々な想いが胸を掻き乱す。
 何故あの子だけが辛い悲涼ばかりを畳み掛けられなければならないのか。ようやと彼女の笑顔が戻ってきつつあったというのに…。
 もう充分だろう…!?
 奥歯を噛み締め近くにあった壁を殴ると、部屋を飛び出した。

 赤銅の髪を風に揺らし、少女は中庭にいた。
 仰向けに寝転がり両腕で顔を覆っている。指先が震えているのが見て取れ、コウキは更に胸に痛みを感じた。
 深くゆっくりと深呼吸をし、そっと少女に近づいていった。
 彼女が我慢しているもの。それを解放してあげたいと願う。
 呆れるくらい何度でも、手を差し伸べ続けようと誓う。
 いくらでも、無限に、君の想いを受け止めよう。その重みがほんの少しでも和らぐのなら。

「泣いてもいいんだ。我慢するな、ミウカ」

 ――泣くことが弱いということではないのだから…。




[短編掲載中]