前第一隊隊長の不慮の事故後、急遽執り行われた昇級試験を潜り抜け、隊長職についてから一年が経過していた。
 このクエン国で存在することが有り得なかった色を宿す少年――ハル。
 僅かに少年の年齢ながらも、周囲に圧倒的な存在感を知らしめていた。
 第一隊内でも、初めこそ反発心を露わに指示に従わない者もいたのだが、他を凌駕する実力と皇帝より得ている揺ぎ無い信頼。応えるだけの手腕。反抗することによってもたらされる負の影響とを天秤にかければ、従うが得策と一様に言動を改めていく。
 ここ最近になってようやと、思い通りに周囲を動かせるようになってきた。いち物抱えている者ばかりに囲まれ、だがそれさえも生き抜く糧とした。やわな精神力ではこの国で生命を繋いでいけない。
 自分にあてがわれた執務室で机上に山と積まれた書類を横目に、ハルは深く椅子に沈み込んだ。長く息を吐く。
 今日も朝から濃く垂れ込める雲の所為で、真昼間の時間帯だというのに室内は灯かりを灯さないと字も読めないほどだった。カルダナール大陸北部らしい天候だ。こちらで地位を築くまでに要した年数分、北部の劣悪な天候にも慣れた。
 そんな中で、ふとした瞬間によぎるのは、記憶に刻まれた蒼穹だった。雄大な大気に溶けるように笑う、少女の笑顔だった。
 感傷に浸っている余裕などない。そう叱咤する傍らで、心の柔らかい部分をくすぐるそれに、思考の総てを任せていたい衝動に襲われる。
 十歳の、あの日から――
 雷雨轟く中、願い求める少女と再会を果たした。そして、彼女に深く傷を残す結果を招いた。
 例えば己の望む世界が手に入った時、彼女はかつての笑顔を自分に向けてくれるだろうか。幼き頃と変わらぬ、純真な笑みを。
 それを手に出来るのならば、鬼にでもなれる。他を切り棄ててゆける。総ては、たった一つの為に。
 いつの間にか雨雲は決壊していた。まるでハルが記憶を辿った所為だというように、降り注ぐ水量は激しさを増していく。遠くで空が唸っていた。時折雷光を響かせて。
 呼応して掌が疼く。鮮明に蘇る感触。――刃が生命を停止させた瞬間。
 傷を負ったのは俺も同じ、か…?
 途端嘲笑が沸き起こった。

 心を棄てずに、貫き通せるわけがない。叶えられるわけがないのに。

 ぎゅっと握った拳を睨みつけた時、雷音の隙間に扉を叩く音が割って入った。短く応じ、執務を再開する。失礼しますと応じ入室し、近づいてくる気配に顔も上げず作業を続行する。
 ほんの数秒途切れてしまったが、本来なら僅かな隙間もないほどに忙しいのだ。それは今入室してきた副隊長――ザドーも承知の事実だった。
 毎度がそうなので一度も目を合わせないことも慣れきっていた。今更気に留めることもない。彼の存在などそこには無いかのように、忙しなく筆記具を走らせていた。
 ザドーは定位置まで歩み寄り、容赦なく未処理書類の上に束をバサッと乗せた。
 これも毎度のことだ、と敢えて無視をする。文句を言って軽減されるのであれば騒ぎ立てるのだけれど。
 常であれば用件が済めばただちに退室するのに、動く気配はない。ハルは手を止めず顔も上げず問い掛けた。
「報告でもあるのか」
「少し休息されてはいかがです?昨夜も遅くまで業務にあたっていたと聞いてますが」
「なら…これ、適当にやっていいか?」
 山積みの書類を指した。目線は依然落としたままだ。
「見極めて下されば」
 彼の方を見なくてもどんな表情を浮かべているのか容易く想像ついた。眉をひそめるのを堪え、相手にすると長くなるので無視を決め込んだ。
「用がないなら下がれ」
「ハル殿」
 隊長就任と同時期にザドーもまた副隊長に任ぜられた。一応ハルは上官なのだが、彼は一度とて「隊長」と呼んだことはない。別に呼ばれたいわけでもないので放っておいているのだが。
 規則正しく書き綴る筆音に、ハルの平坦な対応が乗っかった。
「なんだ」
「願掛けという言葉をご存知で?」
 一瞬、音が止んだ。一驚と疑念のために、ほんの一瞬だけ。――ザドーがこういう類の話題を振るのは珍しい。単語すら口にしたのを聞いたことがなかった。
 すぐに筆記具を持ち直し元の音を奏で始め、先程より低くなった声音で吐き棄てる。
「それがどうした」
 ハルの機嫌が一段階悪くなったのを感じ取りながらも、ザドーは口端で小さく笑った。この少年はまわりくどいのを嫌うのだ。
「ちなみに、やってみたことは?」
「……あるように、見えるか?」
 訝しげに眉をひそめる。
「質問に質問で返さないで下さい」
 まぜっかえすのも珍しい。ますます募る猜疑心。こんなにも先の読めない話題を振ってくるのは初めてだった。
「用件を話せ」
「個人的興味です」
 このままの調子でいっても埒があかない雲行きだ。ピタリと手を止め、ザドーを見上げた。裏を勘ぐりたくなる笑い顔を浮かべている。
「希望や願いを叶えるのに神頼みすることだろ?同時に達成するまで断ち物をするとか」
「誓いの証として、なにかに想いを込めて慈しむとかもありますけどね」
 ザドーの思考が全く不可解だ。世間話に興じている状況じゃないのが判らないほど愚かではないと把捉していたのだが、思い違いだったかと我が了知を疑う。
「なんにせよ、くだらん」
「何故です?」
「そんなものに縋って叶う程度の願いなど、低俗以外の何物でもないだろう。平和ボケしてる輩がするもんだ。南部らしい発想だな」
 ハルが『決意』をした時、真っ先に棄て去ったのは『甘さ』だ。
 ここでは実力のみが求められ、認められる。生き残れる唯一の手段だ。神の存在を信じ祈り誓いを立てて叶うものなどあるわけがない。
 信じられるのは己の力だけだ。
 唾棄するように言い棄てるハルに対して、ザドーは大仰な声音を出した。
「おや。判りますか。確かに、ここ北では思いつくだけの余裕すら無いですからね。しかし手厳しいご意見で」
 つらつらと返答を返すザドーに苛立ちが募る。不機嫌さを少しも覆わず、更に一段階声を低く紡いだ。
「ザドー」
「はい?」
「こう見えても俺は忙しいんだが?」
「はい。承知しております」
 つらっと言い募る。ハルの不機嫌をものともしていない。
「密偵の報告を受けている内に、脳内温暖化でもしたか?」
 あはは巧いですね、ザドーは笑う。軽く流してしまっている。気でも狂れたかと不審な目つきを向けても意に介していない。
「邪魔してすみません。業務はほどほどにして休まれて下さいね。体調管理も肝要ですよ?では、私はこれで」
 失礼します、と身を翻した。
 呆れて息を吐き、再び執務に戻ろうとして――扉を開けたザドーが背中を向けたまま口を開いた。
「そうそう。どうでもいい情報かもしれませんが、一応お伝えしておきますね」
 まだあるのか、と柳眉を寄せた。
 ザドーの声に、ほんの少しだけ真剣な音が含まれ室内に響いた。
「願掛けをしているらしいですよ。あの日から――ああ、あの日もちょうど、今みたいな天気でしたね。…大切に伸ばしているそうです。貴方と同じ色の髪を」
 思わず、落としかけていた視線をザドーの背中に置いた。
「どうやら、貴方と同じみたいですよ。…あの方の願い事」
 言い置いて、今度こそ本当にザドーは扉の向こうへと消えた。ハルはくるりと椅子を廻し、窓越しに荒れ狂う空を見つめた。雷鳴が轟き、閃光が走る。

 また、心の最奥がくすぐられていた。
 同時に、頭の片隅に眠っていた記憶の引き出しが開く。とてもあたたかく、鮮明に思い出してしまえば鼻の奥がつんとするような。
 扉の向こうに消えたザドーの笑みを想像すると癇に障る。それなのに自然と口端が持ち上がってしまう。
 それはまんまと彼の策にはまったことを示しており、ひどく情けなくも腹立たしくもある。
 だが、
 決して悪くない情報だ。

 もう部屋には自分しかいない。けれど、ハルは口元に緩く握った拳をあてがい、零れる笑声を塞いだ。幸福感が彼を包み込んでいた。




[短編掲載中]