名前を呼ばれて、遥は渋々振り返った。
 一番対面したくない相手、といっても決して大袈裟ではないだろう。葵に二度目の「やめる」宣言された、昨日の今日だ。それだけでも、最悪の機嫌だった。
 そうかと言って、無視するのはいけないというくらいの分別は持ち合わせていたので、仕方なしに声をかけてきた人物――沙月の方を向く。
 何故こんなにも腹立たしく思うのか、不可解だった。自身の心が明確ではない感情を湧き起こすものだから、余計に腹立たしい。
 遥の傍を離れた途端に葵に告白をし出した連中の軽薄さにもむかつくし、そいつらとは笑って話している葵にもむかついていた。最近よく見かける、葵と沙月が一緒にいる姿にも。
 沙月の顔を見上げて、そうか、と閃いた。
 彼に対する感情は、葵への好意を示した先駆け的人物だからなのかもしれない。目の前の余裕すら感じさせる空気を纏う沙月なら、葵を泣かせたりしないんだろうか、とぼんやり考える。
 唇が遥の名前の形に動いた。はっと我を取り戻し、聞き返す。沙月は訝しがる様相もなく、用件を繰り返した。
「榊さん、呼んでくれないか」
 むっとくるよりも先に、従順に反応して動作が伴う。これ以上沙月と対面していたら、己のちっぽけさを浮き彫りにされる気がしたから、顔を背けたかったのかもしれない。
 教室内を見渡して、席に座っている葵を見つけた。こちらに背を向けている。亜理紗と談笑していた。
 そこで、はた、と気づいた。
 意識を取り戻したばかりで、思考が止まっていたがために、沙月の言葉通りに動いてしまったのを悔しく思う。
 今までだったら、葵が隅にいようが沙月は自分で直接呼んでた。わざわざ遥を経由する真意が読めない。まさかそれを指摘するわけにもいかず、葵の背中に向かって声を張り上げた。
 ビクリと反応するも、葵は振り向かない。代わりに亜理紗がこちらを見た。沙月は手を上げ、無言の挨拶を投げる。葵に一言二言、亜理紗が話し掛け、ようやと指名者が振り返った。
 一瞬だけ遥と目が合い、すぐに視線は隣の沙月に移る。そして、笑顔だ。
 かちんときて、葵が到達する前に遥は廊下へ出た。風を切るが如く、大股歩きになっていたことに、遥は気づいていなかった。

 逃げるようにして教室を出て行った遥を、目で追わないようにと努めて、葵は沙月に向かい合う。
「兄貴がさ、彼女と喧嘩して行けなくなった映画のチケットがあって。これ、もうすぐ終わっちゃうんだ。もし都合よければ、行かない?」
 差し出されたチケットを手に取り、タイトルを見た葵は喜色満面の笑みで沙月を見上げた。
「これっ!いいんですか!?観たかったのなんです!」
「それは良かった。一緒に行くの、僕で構わない?」
「もちろんっ。全然問題無しです!」
 ほくほくしながらチケットを眺めている葵と、それを嬉しそうに見つめている沙月。教室の戸口で二人揃っているのを発見した琢巳は、廊下から教室内への途次で立ち止まる。
 沙月と挨拶を交わし、葵を見遣る。
「榊はなに騒いでたんだよ」
 葵の手元を覗き込んだ。向こうまで響いてたぞ、という琢巳の呆れ声に構わずに、葵はチケットを持ち上げた。
「見て見て、これっ」
 無邪気に笑っている。こんなところは変わってない。変わったのはただ一点。遥との接点を断ち切ったことだけだ。
「あー、観たいって言ってたやつじゃん。よかったな」
「うんっ」
「初デート、じゃないっすか。先輩」
 からかう琢巳の一言で、沙月の顔で熱が弾けた。そっぽを向いて隠そうとするも、ばっちり目撃した後で、葵もつられて赤くなる。
 琢巳は「ではでは、邪魔者は消えますねー」と残し、さっさと亜理紗の元へと歩いていった。

 席に戻った琢巳に亜理紗は問う。本当は気になってしょうがないのだが、まさか参入するわけにもいかず、やきもきしていたのだ。
「沙月先輩、なんだって?」
「デートのお誘い、ってやつだな。映画行くんだってさ」
「微妙な顔してるね」
「いや。二人に声掛ける直前、耳に入ったんだけどさ、先輩の兄さんが買ったチケットじゃないと思うんだ。あの手の映画、嫌いだって言ってたような気がするんだよな。あれ、榊の為にわざわざ買ったんじゃねーのかなって」
「よく覚えてんね、そんなこと」
 余計なことばっか記憶力働くんだね、と琢巳をからかう。
「部活ん時にその手の話になって、遥の奴も苦手だって言ってたジャンルだからさ。榊がそれ聞いて、ぶーたれてたからな」
「ほんとに本気なんだね、葵のこと」
「榊も、先輩を好きになってればよかったのにな」
 友達甲斐のない人だね、と揶揄しながらも、亜理紗も同意を示していた。けれど認めてしまったら葵のこれまでの想いが不憫に思えて、かぶりを振った。
「理性で型にはめられるもんじゃーないからね。こればっかりは、どうしようもないよ」


[短編掲載中]