自分はちゃんと、笑えているだろうか。のろけに呆れる友人を、演じれているだろうか。苦い心地が、表面に滲み出ていたりはしないだろうか。
「あの会社に入って最初の2年間はさ、とにかくもう必死で、絶対周りに負けてやるもんかって思ってた。勝ちとか負けとか、そんなこと考えてる時点で、負け認めてるようなもんなのにね。焦ってたんだ。仕事としてデザインを創るってことが、自分はできてない気がしてて。なのに周りは何歩も先に行ってる気がして。置いてかれてる感が、すごく怖かった。営業に移って、数字で成績問われるようになって、そのことに気づいた」
 急き立てられるように早口になっていた。自分でも何を話したいのか判らなくなってくる。明確なのは、別の話題にしたかった。
「高輝くんね、言ってたよ。更紗ちゃんが営業に移るって聞いた時、なんでだよって腹が立ったって。デザイナーとしてすごいの創ってんのに、認めてないみたいなことすんだよって。――好きだって、言ってたよ。更紗ちゃんのデザイン、どれもこれも、すごい好きなんだって。才能あんのにどこみてんだよって」
 駄目だ。力を入れていないと涙腺が簡単に崩壊しそうだ。そんな素振りはなかったじゃないか。能天気に送り出してたじゃないか。
 目の奥が熱い。けれど顔を覆うわけにはいかない。胸が締め付けられる。けれどそこに手をあてるわけにはいかない。
 平静を。ほんの少しの時間でいい。この場を遣り過ごせるだけの平静をどうか。
 ごまかす所作を必死に探る。不自然にならないように、どう動けばいい。思考を巡らせることで凝固している更紗に、梨恵の真摯な眼差しが突き刺さる。
「好き?」
「へ?」
「更紗ちゃんは、高輝くんのこと、好きなの」
 合点がいった。一番に問いたかったのは、これだ。
 真摯な眼差しは、嘘もごまかしも逃げも許さないと語る。それを訊いてどうするかなんてことは、考えていない。ただ、明白にしたいだけ。
 ひどく残酷な問い掛けだ。意図的か無意識かなんて、些末な問題でしかない。
「好きだよ」
 真剣に問うというのなら、見合うだけの重量感で返すのが礼儀。梨恵は息を呑んだ。硬直し、言葉を失っていた。だから構わず、続けた。
「あたしはあいつの才能に惚れてる」ひとつの意志が、確かな重さを持って、生まれた。「安心してよ。梨恵ちゃんが心配するようなこと、ないから」
 確たる決意が、更紗の中に鎮座していた。


◇◇◇


 手荷物検査場はすぐそこにある。出発ロビーと名付けられたスペースに、等間隔で置かれたベンチに、更紗は一人、座っていた。見送る者はいない。更紗がそう、望んだからだ。
 今日、英国に向けて発つ。
 梨恵と話した週明け月曜日、辞令を受けると社長に報告した。
 社会人としてなら、将来を見据えての決断と言える。もちろんそれはある。定年まで働き続けるのか、先のことまでは判らない。判らないのなら今、自分がどうあるべきかを考えた。
 有田から話を持ち出された時は驚きもしたし困惑もした。時間をもらい、熟考に熟考を重ね、自身を取り巻く状況を鑑みた上で、決めた。仕事として、魅力的だった。やってみたいと、思った。これが社員としての南更紗の答え。
 そして、いち個人としては、別を思った。
 高輝への想いを止めるも消すもできないのなら、せめて視野に入らない場所に行きたかった。何かを変えなければ、いけないと思った。
 梨恵と話したことが、きっかけとなった。
 高輝が、本当は部署異動を怒ってくれていたことにも、心が動かされた。自分にはまだ、デザイナーとしても路があったのだ。高輝の気持ちが、後押ししてくれた恰好になる。
 搭乗までにはまだ時間はたっぷりある。交通機関の遅れも考慮して早くに家を出たけれど、問題なく着いてしまった。手続きを済ませ荷物を預けてしまえば手持ち無沙汰だ。ロビーにいようがゲートをくぐろうが、一人で過ごすことに変わりはない。ラウンジに行こうか、売店を転々とひやかしに廻ろうか、とよぎるも、結局動かず座ったままだった。
 感傷に浸る気はない。むしろ、これから新しく拓ける世界を思うと、昂揚する。下した決断が間違いではないと、自信を持っている。
「だから、応援してほしかったんだけどな」
 思わず独りごちる。辞令が正式に発表されて以降の高輝が思い出され、苦笑した。応援してなかったんじゃない、と願いたい。小学生レベルの感情で、親しくしている者が遠くに行ってしまうことへの寂しさが、全面に出てしまっただけなのだと。
 出立日は知らせていない。怒るだろうか。悲しむだろうか。今にも泣き出しそうな顔が思い出された。更紗の転勤を知った時だ。
 あれは駄々を捏ねているといっても過言ではない。
 人事異動通知がメールで全社員に一斉送信された数秒後、営業部の島に嵐がやってきた。ある程度予想はしていたものの、高輝のそれは遥かに超えていた。宥めすかして説得しようにもどうにも埒があかず、オフィス内にいては他の者の邪魔になるので社外へと連れ出した。移動の最中に少しは頭も冷えたのか、ビル近くの公園で話す頃には、とりあえず会話らしいものはできるようになった。涙を流すまではいかないものの、目は充血していた。
「これってあたしが泣かしたことになんの」
 罪悪感的なもの半分、呆れ半分だった。今にも潤みそうな双眸を向けられ、あさっての方角に視線を飛ばした。
「泣いてない」
 ぐっと堪えた声音では全く説得力無し。むしろ主張してる。もちろんそれは口には出さない。
「とやかく言われたくなかったんだよね。もう決めたことだし」
「いつ決めたの。前もって話、あったんでしょ。なんで言ってくれなかった。ひどいよ。こんな、みんなと同時に知るとか」
 泣きたいのか怒りたいのか、判然としない。声は間違いなく湿っているけれど、男としての矜持か人目を気にしてか、やっとのところで堪えてる感じだ。泣かれても困るだけなので、そこは是非とも保っていただきたい。
「まぁね。逆のことされたら、あたしだったら怒るかも」ごめんね。そこは素直に謝っておく。「一人で考えたかったんだ。高輝に相談しても、どうなることでもなかったと思うし」
 ちょっときつかった?
 自分でも驚くくらいには、淡々とした口調をとっていた。ちらりと窺う。高輝はぎゅうっと口元を締めていた。とても同い歳とは思えぬほどに子供っぽい。呆れるよりも強く、胸が痛い。申し訳なさが満ちてくる。



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