「俺は今嗅いだ香りだけで眠れそうだよ。これはミウカがもらったもんだ」
 再び返そうとして、莉哉の手は空をきった。
「おいー…」
 引っ込みのつかない手を立ち上がったミウカに向け直す。赤銅色の瞳が、優しく細められた。
「いい。リイヤにやるよ。自分には必要のないものだからな。…枕元に置くといい」
 おやすみ、と言って上げた手は振られることなく――剣を抜いた。
 一瞬だけ見えた真紅の瞳。それはすぐに莉哉を庇う形で立ちはだかった背中で見えなくなった。
「なん、だよ」
 草原の時と同じ緊張感。警戒心。ざわりと風が吹き抜けた。と、『何か』の気配が――
「リイヤ!!」
 突き飛ばされ横に転がった。ミウカは瞬時に態勢を立て直し、向かってくる『敵』に備える。見開かれた莉哉の目に異形の『モノ』が映った。
 だちょうほどの大きさに、鋭く巨大なクチバシ、全身をウロコで覆われた化け物。
「なんなんだよ…こいつはっ…!」
「何故フガードが!?」
 にわかには信じられないモノの登場だった。夜目が利かないフガードの行動は昼間だけの筈だった。それが今は瞳孔を見開いて、日中の動きとなんら変わらない攻撃を仕掛けてくる。
 莉哉から距離を作る為にフガードを引き付けると、ミウカは執拗な攻撃をかわしている。莉哉は木に背後を預け、二つの影が闇の中、激しく衝突しているのを見ているしかなかった。
 上段からのクチバシをしゃがんでかわし、両足で地面を押しつける。勢いのついたミウカの躯が剣を天に向かって突き上げた。甲高い獣の声が空気を切った。ミウカの剣がフガードの喉を貫いていた。躯の割に小さな翼をバタつかせ、尚も攻撃しようと首を振り上げた。
 自身の腕ごと剣が持ち上げられるのを、真紅の瞳は冷静にとらえていた。ともに立ち上がり、閃光の軌跡が真横に薙いだ。胴体から斬り離された喉からはもう、悲鳴はなかった。ビクビクと痙攣していた魔物はやがて動かぬ塊となった。少女の足元に転がっている。
 背中しか見えない。真紅の瞳は見えない。
 あの柔らかに笑う顔は今、どんな顔をしているのだろう――
「リイヤ!!怪我はないか!?」
 駆け寄ってくる顔は赤銅色を焦燥と憂いに染めていた。異臭が鼻をつく。どろりとした液体がその斬り口から流れ出ている。ミウカ越しに見えるおぞましい視界、匂い、感覚。――眩暈がした。
 口元を押さえ、膝から崩れ落ちる。
「リイヤッ!!」
 吐き気が込み上げる。
「っつ!ぐうっ…!!」
 恐怖が、込み上げる。――なにに、対して…?




「リイヤ様、これを」
 気遣わし気にシェファーナが白湯の入った器を莉哉の手にそっと掴ませた。
「大丈夫ですか?」
 中庭へと続く廊下の段差に莉哉は腰掛けている。フガードの断末魔によって起きだした城内の者達の中で一番に駆け付けたのはシェファーナだった。ミウカとの目配せで素早く現場から莉哉を引き離し、ここに座らせた。
 今は布を被せられ見えなくなった異形のモノ。思い出すだけで吐き気が復活するようだった。
 場に留まり集まってきた騎士に指示を出しているミウカは、一度も莉哉の傍にはきていない。
 違う…。違うんだ…!!俺が震恐したのは…!
 器の中の白湯が小さく波立っていた。シェファーナの視線が感じられた。
 情けない…。
「怪我はないのか?」
 凛とした低い声が背後から近づいてきた。
「コ、コウキ様っ」
 慌ててシェファーナは一歩下がって頭を下げた。
「シェファーナ、頭を上げなさい。夜更けにご苦労だったね」
「と、とんでもございませんっ」
「下がって休むといい。彼は大丈夫だろう」
 ですが、と言い掛けて莉哉を見遣る。口元だけで笑って頷いて見せた。ペコリと頭を下げ小走りで去っていく後ろ姿を見るともなしに見送った。
 莉哉の隣に腰掛ける。視線は木の下の赤銅色に向けられていた。
 結われていない長い髪が月明かりに輝いた。端正な横顔も碧の双眸も、深海の静けさのように冷静そのものだった。
「仕方ないだろう」
「…?」
「お前がきた世界は、こことはだいぶ違うのだ」
 ――だから、仕方ない?
 魔物を前に動けないのも?闘いを恐いと感じることも?…仕方ない?なににもできないことも?
「…っ!」
 悔しかった。言う通りで、それが事実で。
 こうして自分の手が震えているのは紛れもなく現実で。――情けなかった。惨めだった。

 なんで俺、ここにいるんだろう。


[短編掲載中]