『ターニアが見た、漠然とした仮定の話だ』
 だから真に受けるなと、少女は言った。気に留める必要はないと。
 ミウカの言葉を信じたい。けれどあれは、嘘だ。莉哉の役目がないというのも、嘘だった。
 無事に還す為の、優しい嘘。


 ぎゅっと拳に力を込めた。掌に爪が食い込む。
 頭上のどこかで鳥の鳴き声がした。いつかの、莉哉がラスタールに来てすぐ聞いた声。見上げたが姿を確認することは出来なかった。
 空の青が目に痛い。刷毛ではいたような薄い雲がそこここに浮かんでいる。爽やかな風が頬を撫で、莉哉は目蓋を降ろした。昨夜のミウカが映る。様々な表情をした今までの彼女が映る。
 傍にいたい。彼女を救いたい。己の役目を貫けば、二度と逢うことは叶わない。少女の根底にある望みを優先するなら、役目をまっとうすればいい。けれど、自分の望みは共にいたいのだ。
 心に問い掛ける。何度も、何度も。…未だ返事は戻ってきていない。
 早朝の、夜が明けきらぬ中、街門の外側に莉哉はいた。一睡も出来なかったのは花の香りが無い所為ではない。
 タキに真実を突き付けられた時より、決めていたことだ。
 目の前に広がる草原。森を抜けその先に広がる砂漠。彼女が、彼女の大切な人々が愛する世界。自分にはそれらを護る術がある。ミウカの笑顔を護り抜ける術がある。
 ――唯一で、絶対の、方法。
 この瞳は何故、莉哉に未来を、過去を見せるのか。役目を果たせと、いうのだろうか。

 昨日――ナラダが揺れ、コウキが散った日。火蓋が切って落とされた瞬間に見た『未来』で、散る筈だったのはミウカだった。彼女には決して伝えてはならない事実。それでなくても庇われたことでさえ、少女は己の責だとしているのだ。
 だがもしも、と考えてしまうのはいけないことなのだろうか。
 俺の警告があれば、先は変わっていたのかもしれない。
 未来を変えることは間違いなのだろうか。変えてはいけないものなのだろうか。ならば何故、莉哉にそれを見せるというのか。
 思考を巡らせている内に、ふと引っ掛かるものを感じた。
 過去は変わらない。現実に起こったものを、ただ歴然と、この瞳に見せていた。
 未来は、どうだった? 
 これまでにこの翠眼が見てきた『未来』で、たとえ僅かな映像だったとしても、それが違われたことがあっただろうか?…ない、と言い切れるだろう。
 《透察眼》が見せたあの日の散る筈だった生命――それは確かに彼女だったわけで。
 まさか、…コウキは知って…?『コウキが知っていた』ということを、ミウカが知っていたのだとしたら…!
 攻め寄せる感情の波を、どう消化していいのか判らなかった。あくまで莉哉の推測でしかない。だがそれは核心に触れている気がしてならなかった。
 どうして…。どこまで苦しめばいいんだ…!
 胸が痛い。心が抉られる。心臓の辺りの服を、力の限りに握り締めた。

 石畳の上を歩く足音が聞こえてきた。迷うことなきその足取りはどんどん近づいてくる。凛と背筋を伸ばし歩くさまが目に浮かぶ。
 見事なまでに予想通りの展開に、不相応だが笑ってしまった。
 リズムを崩さず行進さながらの足音の主は、門から半歩はみ出た状態でピタリと止まった。そちらの方へ注目していた莉哉は耐え切れず笑声を洩らした。
「おっかねぇ顔」
 固まった状態で顔だけをぐりんと莉哉へと向けた少女。あからさまに怒っていた。
「おはよう」
 爽やかな空に似合った爽やかな笑顔で莉哉は言う。
「…おはようじゃないだろう。こんな所でなにをしている」
 赤銅色の目は柳眉と一緒にひそめられ、睨みつけてくる。
「ミウカこそ、なにしてんだよ?」
 何食わぬ顔をつと真顔に戻し、一歩詰め寄った。君の考えてることなどお見通しだよ、ミウカ。
 口を開こうとしない少女に代わって言葉を紡ぐ。
「スティア姫を助けに行くんだろ?一人でどうしようってんだ」
「…リイヤには関係のないことだ。ついてくるなよ」
 これ以上問答する気はないと言わんばかりに身を翻し歩き出す。
 あくまで拒絶か。聞こえるように溜息を吐くと少々強引に腕を掴み振り向かせる。
「俺も行く。もう決めた」
 否定の言葉を綴る為に開かれたミウカの唇は、背後からの別の声に遮られた。
「駄目だと言っても、きかないよ?」
 飄々とした軽い口調。朝は苦手だと宣言して憚らない少年の、きっぱりとした声。
「タキ…」
「水臭いよ、ミュウ。僕だって兄様の仇、とりたいんだからさ」
 軽快な物言いでも真剣な響きはあって、ミウカは不興顔を解いた。それぞれの顔を一瞥し、何も言わず再び歩き出す。
 華奢な背中は「勝手にしろ」と言ってるように見えた。


◇◇◇


 草原を抜け、木々と砂漠の境目に辿り着いた時、砂に一本の矢が衝き立てられた。その後が続いたわけではないが、三人はすぐさま臨戦態勢をとる。互いに背後を任せ、三方向をそれぞれが警戒を露わに見渡した。
「わざわざ出迎え…なわけ?」
 揶揄する響き。三人の前に現れた黒づくめの影。先頭に立つこの少年もまた、自分を偽っているだけなのだろうか。
 向き合った対。離れた年月が銘々を変化させても、変わらない同じ願いを持つ双子。
「姫を、返してもらおう」
 ハルを通り越してその後ろに捕らえられているスティアを見た。彼女もまた、ミウカを見ている。否、睨みつけていた。ミウカだけに向けられる怨憎の目。
 莉哉は背筋が凍るのを感じていた。
 臆せずミウカは歩を進めた。ザドーに指示を目配せし、ミウカに向かって手を広げ制止するようにと示したハルは、スティアに「行け」と促した。
 捕縛から解放されたスティアは一瞬だけハルと目を合わせ――そこにも怨恨は激しく含まれていて――それからまたもやミウカを睥睨した。
 監視哨の兵が警報を出したのだろう。続々と騎士や自警隊が周囲を固め始めていた。とはいえその数は先の奇襲により大幅に削がれていた。怪我をしている者も少なくない。
 それでも心持ちは負けていない。頼もしく感じられる。
 こちら側へと歩いてくるスティアを見守りながら、警戒していた。ハルは胸の前で腕を組み片足に体重をのせ、傍観している。
 スティアに怪我は見当たらない。着衣が汚れている様子もないことから、丁重な扱いであったと推察された。安堵に胸を撫で下ろし、彼女がすれ違いざまに声を掛けようとして、ミウカは見つけてしまった。彼女の手に握られていたもの。それの動きを。
 遣り切れない気持ちでその動作を見守った。ミウカには、逃げる気など片端もなかった。それを受けたからといって、スティアの心が晴れるわけではない。そんなことは本人だって判っている。それでも譲れないものというのは、あるものだ。
 わざと無防備に構えた。この生命がもてばいい。『無』へと還る、その時まで…。
 きらりと光る。鋭い刃。細く豪奢な懐刀の鞘を投げ棄てて、スティアは狙いを定めた。


[短編掲載中]