少女の瞳を覗き込んだ。なびく髪に目を遣った。
 大きな瞳も、愛らしい形のよい唇も、華奢な肩も、細い腕も。端麗な容姿は彼女そのもの。だが一つだけ、少女を象徴し続けてきたものが消えていた。
 落ち着き、ようやと顔をつき合わせる形をとるまでに多少の時間を要した。彼女の特徴ともいうべき切り換えの速さは功を奏さなかったようで。
 涙の滲む瞳は彼女の見目麗しさを際立たせる。不意に莉哉は平常心を取り戻す。あまりの至近距離に心臓が跳ね狂った。心音がばれてしまわないよう両肩を掴むと少しだけ肢体を離した。
 躯を離し改めて眺めても、やはり無くなった『色』は無いままだった。
 ミウカの【赤銅色】が、消えた。
「ちょっと、ごめん」
 おず、と差し出した手で少女の髪を梳く。僅かに頬に指先が当たってピクンと反応するさまが可愛らしい。透けそうな瞳がじっと莉哉を見つめる。
「リイヤ?なにを笑う?」
 口調は相変わらず彼女のままで、可笑しくなる。
「いや…。この色も、似合うな」
 ああ、と納得顔で応じ笑顔を向けた。
「リイヤと同じになってしまったな」
 栗色の髪は陽に透けて金色に輝き、薄茶の瞳は光の加減で翠にもなる。
「しまった、とは聞き捨てなんねーな」
「ほんとに細かいことを気に留める。単なる言葉のあやだろう」
 互いに見合わせ、笑う。視線を落とし、ミウカの手首をとった。感慨深げな莉哉の視線につられてミウカもならう。

 【呪い】が穿たれてから八年。片時も外されることのなかったバングルがなくなっていた。魔獣に変わることはない。永遠に。
 【呪い】も【赤銅の宿命】も、消滅した。

「……ハル…」
 感情のこもる呟きを、近くにいた莉哉だけが拾っていた。ぎゅっと握り締めた掌が白く力を込める。
 その拳にそっと手を置いて、莉哉は再びミウカの顔に目線を置く。
「ミウカ」
 優しく撫でるような声色に、ふとミウカの手から力が抜けた。
「ミウカ。二人は、逢えたよ」
「え?」
「コウキと、」
 少女は満面の笑みになり言葉を紡いだ。
「スラ姉?」
 頷くのを確認して、頬に熱が上がるほどに笑顔が綻んだ。自身のことのように幸せを噛み締める。そうか逢えたのか、と碧空を振り仰いだ。そして呟く。感謝の言詞を。兄の名を呼び、目を細めた。
 少女の目の淵に浮かぶ雫が零れそうで、莉哉の手が伸びた。と、己の視力を疑い瞠目した。
 彼の手の輪郭もおぼろげに、透けて、本来見える筈のないミウカの長い睫が見えた。
「…!?」
 異変を嗅ぎ取り、ミウカの瞳がそれを捉えた。
 すでに躯の透明化は全身にまで及んでいた。光の粒子が拡散し、莉哉の躯も空気へ浸透していく。実体が不確かな存在へと。
 思いが迷走し困惑するのは、莉哉だけで。
 当惑したまま顔をあげると、少女の微笑があった。瞳に様々な感情を宿して。
「本当に…、心から感謝する。リイヤが護ってくれた」
 待てよ、と唇を動かしても最早、声にならない。
 俺はまだっ…伝えてないんだ…!!
 ミウカは手を伸ばし、莉哉の胸に添えた。同時に自身の胸にも同じようにして。

「互いのここに、いるからな」

 薄れていく。躯も、意識も。
 ミウカが遠くなっていく。

 最後に記憶に刻まれたのは、彼女の声。清廉な甘い響き。

「ずっと、近くにいる…」


◇◇◇


 覚醒が訪れた時、瞳から一筋の雫が伝い落ちた。
 そこは砂漠ではなく、森の中でもなく、天にあるのは無機質な天井だけで。見慣れぬ場所で硬く軋むベッドに仰向けになっていた。
 病院、か…。

 長い長い夢を、見ていた気分だ。


 持ち上げた手は実体としてここにある。思い通りに指を動かせる。少女が最後に触れた箇所に置いた。力強く刻まれる鼓動。生きている、証。
 そして、穿たれた感覚。大きくぽっかりと。――残された、虚無感。
 開け放たれた窓から流れ込んでくる風がそっとカーテンを揺らし、莉哉の頬を撫でた。ふんわりと香りがして、見つけたのはコロンとした丸みを帯びた形状の花瓶に生けられた花達。おそらく見舞いの花束だろう。色とりどりの暖色系の花が形よく咲き綻んでいた。
 乳白色の七色に輝く花はない。この世界には、ない花。
 戻ってきたんだな。
 去来する感情の波を巧く消化するには時間が必要だった。

 がちゃ、と扉の開く音がして、顔を覗かせたのは懐かしいとさえ思えてしまう人物。目がかち合うと「おっ」と陽気な声を出して近づいてきた。
「寝すぎだぞ、お前」
 枕元まできてスツールに腰掛ける。動きを目で追い、それに合わせて莉哉の顔も斜め横を向いた。下から見ても怜悧な顔つきだな、なんてことをぼんやりと思いながら。
「ここは…」
「病院だな」
 端的な返答。しれっとして、手にしていた缶ジュースのプルを開けた。
「ベッドに寝かされてるってことは病人扱いってことっすよね?」
「三日三晩眠りこけてたな」
 一口飲むと莉哉に「飲むか?」と勧める。何ら代わり映えのない受け答え。
「諒先輩」
「なんだ」
「……気遣いの言葉とかないわけですか。一応、病人ですよ?目覚めたばっかですよ?」
「それ、必要か?」
「……いえ。もういいです」
 ここにきてようやと、諒は笑み崩れるとさも楽しそうにくつくつと笑った。
 何かを言ってほしかった訳じゃない。気遣いの言葉は不要だ。諒もそれを察している。常と変わらない態度が妙に落ち着ける。
 ――同時に、戻ってきたのだと、実感させられる。
「天気、いいですね」
 空は同じだった。どこかで繋がっているのではないかと思ってしまうほどに。
「あったけーぞぉ。さっさと治しやがれ」
「だからもうちょっと優しい言い方なんかを…」
「あー。耳たこ」
 語尾を重ねて遮りつつ、大袈裟にしっしと手を払う仕草をとる。
「何遍も言ってないでしょーが」
 元気よく突っ込みを入れた。
 ふ、と口元を緩ませて莉哉は笑顔を見せ、躯を起こして諒の手から缶を受け取る。
「莉哉」
「はい?」
 口に運んでいた状態で返事をしたら声が缶の内部で反響した。莉哉が顔を向けるよりも前に、諒は静かに続きを紡いだ。

「おかえり」

 言葉に詰まり、目を見開いたまま諒を見遣る。
 呟くように、小さく返事を返した。
 ここが莉哉の還るべき世界。彼女は【異世界】の人で。出逢えたのは奇蹟だった。かけがえのない大切な存在となった少女。
 莉哉は護りたかったものを護ることが出来たのだ。
 最後に見た少女の微笑み。一番に笑っていてほしかったから。
 逢うことは叶わない。それを思うと心が軋んだけれど。
 へこんでばかりだと叱られるな。
 それだけは勘弁だ、と内心で苦笑した。
 再び空へと振り仰ぐ。
 どこかで同じように見上げる少女の姿を想う。

 いつかまた、“光の橋”が繋がればいい。
 その時はきっと…――




[短編掲載中]