学校がない週末の朝は、宿泊客がその日の予定に胸を膨らませて朝食を終えた後に、澤樹一家揃っての朝食となる。宿泊客がはけて食器の片付けが開始されるまで確かにあった那央の姿が無くなっていた。
家族分の朝食が用意されているテーブルにも、三人分しかない。
「那央ちゃんの分は?」
キッチンで調理の仕上げに取り掛かっていた那央の母親に問い掛けた。対面キッチン越しに目線が合う。
「あの子ね、図書館行ったわ。調べたいことがあるからって、京極町の方まで足を伸ばすって言ってたわね」
客商売の家じゃ落ち着いて勉強できないのかしらね、と独りごちる母親の声は、するりと耳を通り抜けていった。言い表し難い嫌な気分が、胸にしこりを作る。
思い出すのは、記憶転移の話を聞いた直後の、揺れる瞳。
「侑希くん?」
「え、はい」
不思議がる顔つきを向けられ、何度か呼ばれていたらしいと覚る。見える位置まで持ち上げられた手に皿があった。出来立ての湯気をくゆらせている。
弾かれたようにキッチンへ行き、皿を受け取った。朝食も摂らずに追い掛けたい心地を鎮める。世話になっている身で、そんな失礼はできない。
そわそわした気持ちが露呈しないよう気を配りながら摂る食事は味を感じられなかった。ペンションの売りの一つである食事を作り出す那央の母親に申し訳なく思いながらも、会話も上の空だった。
食事が終わるや、何気ない風を装って外へ出るなり駆け出した。到底普段通りの足取りでなどいられなかった。
那央が時々、彼の残したメッセージを聞いているのを知っていた。
彼女の誕生日に届けられた、己の気持ちをはっきりと言葉にしたメッセージ。彼がいなくなってから届けられた、想い。
愛おしそうに、悲しげに、彼女はそれを慈しむ。今の彼女の心がどこにあるのかを、まざまざと見せつける光景。
自分には、どうしたって踏み込めない領域。
人気は少なく、図書館という場所柄、静寂が満ちていた。ぱっと見、動く者の気配すら皆無に思えるほどに。
閲覧スペースには利用者がちらほらいたが、侑希の求める姿はなかった。物音を極力抑えられた空間の所為で、足音を立てるのさえ憚られる。慎重な足運びで書籍棚が林立する箇所に移動した。
那央を見つけ出すことはできた。が、近寄っていくことはできなかった。姿を発見し、綻んだのも束の間、少女が対峙する者の存在に静止を余儀なくされる。
那央の正面は侑希がいる側にあって、彼女に対峙する者は侑希に背中を向けていることになるのだが、誰であるか、正面から確認せずとも判った。
彼女の表情の意味するところを理解するよりも前に、怒りが込み上げた。怒りのままに感情を言葉に変換していたなら、お門違いも甚だしいと怒られるだろうか。
侑希にはその権利がない。
そんなの、判ってる…!
でも、引けない。
わざと、一歩分の靴音を響かせた。振り返った陽向の顔には、事態を想定していたとでも言いたげな表情が浮んでいた。それが更に侑希の憤怒を煽ると、知っているかのようでもある。
那央が戸惑ったように侑希の名を呼び、その後に拒絶が続かないのを待ってから、ゆっくりと近づいていった。書棚に並ぶのは、医療関係の本。読んだところで理解できそうもない表題が連なっている。
陽向の斜め後ろで立ち止まった。彼の表情の動きが視界にあって、声を荒げない自信がなかったからだ。
予感が的中していたことは、那央が手にしていた本が証明していた。侑希に見咎められたことで咄嗟に本を閉じて抱えても、もう遅い。
「純平くんだと…思っているの?」
自分の声が、ひどく恐れているものになっていた。違うのだと否定してほしいと懇願する声でもあった。
「君は、彼を知っているのか?」
反応したのは、陽向だった。あんたと話してるわけじゃない、と吐き棄てられない。
那央と陽向がこの状態になったのは、どれくらい前からなのだろうか。推察するに、そう時間は経過していないだろう。
自分が投げ掛けた質問では中身が判然としない、と遅れて気づく。だが、陽向の反応で二人とも察しているのだと、判った。
心臓移植を受けた陽向。ある筈のない記憶や体験を持っている。記憶転移が起きたと、彼は信じている。
那央の幼馴染み――松尾純平がドナーである可能性を、疑っている。否、たぶんもう、確信に変わっているのだ。
純平を失ってからの那央は、まるで抜け殻だったと言っていた。生きている実感などどこにもなくて。無意味に時間が通り過ぎていっただけだと。今でも、あの頃のことを明確に思い出すことは叶わないと。
だから、ドナーとなった現実があったとしても、那央が覚えていない可能性は充分に有り得た。
「侑希は…純平と会ったことはありません。こっちに来たのは、いなくなった後ですから」
陽向の質問に無視を決め込んだ侑希の代わりに那央が口を開く。彼女に返答させてしまったことを後悔したくなるほどの、暗い声だった。
「…会ったこと、あるんだ」
そうなんだ、と応じようとした陽向を遮るように言って、真っ直ぐに那央を見た。
「札幌の大会で、俺、純平くんに会ったことがある」
隠していたつもりはなかったけれど、話していなかった。知らずの内に、彼の名を挙げることから、想い出に触れることから、避けていたのだと気づく。
長野に住んでいた頃から、札幌で開催されるスノーボードのエアー大会に参加していた。会場で声を掛けてきたのが純平だった。
彼が那央の幼馴染みだと繋がったのは、澤樹家に住んでからのこと。
「それよりも、那央ちゃん、」
今話すべきは、違うことだ。傾ぎ、引き込まれそうになっているのを、黙って見過ごせない。仮に純平の心臓が陽向の中で生きているのだとしても、その事実に縋ってはいけない。
「侑希」
明瞭な声だった。あまりの明瞭さに、たじろぐ。その明瞭さとは真逆に、那央は切なげに表情を歪めた。
「那央ちゃ、」
「知りたいの」
切なさは増す一方なのに、声だけがきっぱりと断言する。「陽向さんと、話がしたい」
邪魔する権利を、自分は持ち合わせていない。身体の脇で握った拳が硬く力を込めた。彼女の懇願を受け入れる他に選択肢はない。ここから去れと依頼されないだけでもましだと、必死に言い聞かせる。
侑希が静止し、それを了承ととって、那央はゆっくりと視線を転じる。侑希の名前を呼んだ瞬間に溜まり始めた涙が、みるみる増えていく。零れんばかりに、かろうじて目の淵に留まっている。
「あたし…驚きました。…陽向さんの滑りを、見た時。まるで純平だった…。癖があったんです。独特な癖で…似たようなのも見たことがなくて…」
「ゲレンデで驚いていたのは、それだったんだね」
陽向は穏やかだった。余裕なのかと見て、そうではないのだと知れた。
「他に…」那央の声が震える。こくん、と空気を飲み込んだ。強くあろうとする健気さが、胸に痛い。
「――他の、記憶は…?」
ほんの短いことさえ、吐き出すのが辛そうだった。
知りたいと願っているのだろう。辛いと判っていても。
「これ、同じだよね?」
陽向はポケットから鍵を取り出した。金属の触れ合う澄んだ音が、余韻を響かせる。
付けられているキーホルダーに、那央の手が伸びて、触れる寸前で止まった。指先が震えている。
「これ…」
那央は自分の携帯電話を取り出して、比べるようにして並べた。ストラップとキーホルダーという違いはあるが、先についているチャームは同じガラス玉で。
「これを見つけた時、驚いたよ。自分が行ったことも周りで持ってる奴がいたわけでもないのに、確かに見覚えがあって。大切なものだ、って感覚も…あった」
那央は携帯電話を両手で持ち、胸の前で握り締める。カタカタと音がして、携帯とストラップがぶつかり合う音だと判る。
止めようと思った。これ以上陽向と話をさせては、那央が壊れてしまう。唇を開き、音になるより先に、陽向の声が落とされた。
「……冬の、花火」
びくり、と少女の身体が硬直し、とうとう瞳の堰は決壊した。かつてないほどに切なく歪み、両手で携帯電話を握り締めた格好のまま、顔を埋めた。隙間から、絶え間なく涙が伝う。床に透明な雫が落ちてゆく。
純平のいない雪山で、那央は彼からのメッセージを受け取った。残された彼の声は、今も那央の携帯電話に保存されている。
――このことを知っているのは、ごく身近な人間だけ。
陽向が知っているとは考えにくい。
嗚咽を噛み殺した那央の涙は止まらない。一歩前へ陽向が動いた。
「君を、愛しいと感じる」
緩やかに、穏やかに、陽向の声が静粛な空気に溶ける。悪戯に少女を傷付けようとしているのではない。そう本能が悟るから、侑希は見守るしかなかった。
「――なぜ…ですか?」
顔を上げず、くぐもった少女の声が問う。
「自分でも判らない。…だけど……、ここが、訴えるんだ」
那央は顔を上げない。否定するでも、認めるでもなく、静かに肩を震わせている。陽向は続けた。己の心臓のあたりを指し示して。
「この子だって。――君が大事だって」
少女の顔から、ゆっくりと手が離れる。濡れた瞳を真っ直ぐに陽向に向ける。揺らいではいなかった。
けれど、儚く映る。
「それは…陽向さんの記憶ではないです」
もしも純平の心臓がそこにあるのだとしても。――その前置きを、飲み込んだのが判った。
陽向は、それさえも判っていたと思わせる穏やかな笑みを浮かべた。
「理屈じゃないんだ。君を大事にしたいって思うのは、理屈じゃない。…俺の記憶じゃなくても、感情は…俺のものだ」
「違う」
とっさに、侑希は低く呻くように吐き出していた。爆発しそうになる感情を押さえ込んで、彼女が壊れる前に救い出したいと焦燥に駆られた。
陽向と視線がかち合って、鋭く睨み付けた。
「記憶転移が現実のものだったとして、それが純平くんのだったとして、記憶に惑わされているだけだ。いっときの感情で、那央ちゃんを混乱させんな」
「君が、言うことでもないだろ?家族でも恋人でもない君が」
ただの同居人のくせに。
続けたのは、陽向じゃない。侑希の内なる、もう一人の自分が嘲る。でしゃばるな、余計なお世話だ、お前に那央のなにを理解できるのだ。お前は彼女のことを判っていない。お前にできるのは闇に共鳴することだけ。それを理解したと勘違いしているだけなのだ。いまだ彼女が揺らぐのが、なによりの証拠。
己に衝かれ、頭に血がのぼる。その勢いのまま、陽向の胸倉に手が伸びかかり、届く前に腕が止められた。那央の手が、縋りつくように侑希の腕を掴んでいる。指先の震えが、肌に伝わった。
「侑希…っ」
判ってるから、と搾り出す。掴んだまま、陽向を振り仰ぐ。
「陽向さんの心臓は、もしかしたら、純平のものかも…しれない。そう思ったら、どうしていいか判らない感情が産まれたことは、否定しません。……陽向さんに、記憶が残されたことも、信じます。でも、」
那央の手が、躊躇いがちに宙を移動し、陽向の心臓の上あたりで静止する。
「ここにあるのは、陽向さんの為に動いてる。…貴方のものです。喩えこれが、元は純平のだったとしても、彼が…生きているってことじゃない」
壊れる。これ以上彼女にしゃべらせたら、彼女が壊れてしまう。恐怖が足元から這い上がってくる。
「那央ちゃん!もういい!話さないで、」
「…大丈夫だよ、侑希」
涙に濡れる頬は濡れたまま、声は震えたまま。けれど、凛とした強さが瞳に宿っていた。
那央は柔和に綻び、侑希を見つめた。
「間違えたりしないから。あたしを支えてくれてる存在から、もう…逃げたりしないから」
彼女を必死に支えようと、こちらの世界に繋ぎ止めようとした存在を知りながら、少女は闇に絡めとられたまま、抜け出そうとはしなかった。時の流転に在りながら、立ち止まり、過去を振り返ってばかりいた。
もうあの頃に戻らないから。――そう、声無き意志が伝わった。
喉の奥に感情がせり上げて、頷き返すことしかできなくなった侑希を見て、那央は強張った空気を吐息と共に解いた。
「そりゃあね、少しはぐらついちゃったけど」
涙で濡れる頬もそのままに、子供みたいに彼女は笑った。本当にもう、大丈夫なのだと思わせる笑顔で。

[短編掲載中]