遥の隣には、葵がいる。
 当たり前だった光景は、音も無く、あっさりと、突然崩壊する。一度壊れたものの修復が可能かどうかなんて、答えを知っているのは神様くらいなものなのかもしれない。
 同じクラスで、席も隣で、同じ部活で。顔を見合わせないようにするのは至難の業だが、口をきかないのは出来るもので、遥を『いないもの』としての対応は、完璧だった。ある意味感心するほどに。
 そんなこんなで境目から数日。事態は何の進展もみせていなかった。むしろ、葵の態度に怒った遥が事あるごとに纏わりつき、険悪の度合いを増すばかりで。
 変化があったとすれば、葵の周囲が騒がしくなったのと、遥の周囲が物悲しい温度に下がったくらいだ。


 放課後、部活に向かう廊下の途中で葵は名前を呼ばれた。相手は目視せずとも明確で、無視を決め込む。歩調を緩めず、逆に早めるくらいで進んだ。
 葵の思考過程など語られずとも容易に想像がつき、呼び止めようとした遥はむっと眉をひそめた。追い付くと少々乱暴に振り向かせる。
 ここのところずっと、機会を窺っては接触を試みている。その度に空振りだった。苛立ちは最高潮に達している。
「いっ…たぁ!何!?」
 睨み付けてくる葵の顔も、遥に負けず劣らず不機嫌だ。
 遥に思い当たる節が無いとは言わない。この事態を招いた原因が自分にあることは、琢巳に言われなくても自覚している。
 だからといって、今のこの状態はどうだ。極端過ぎやしないか?
「痛い。放して」
 淡々とした物言い。抑揚のない声。数日で人格が入れ替わったのか、なんて馬鹿らしい考えさえ浮かんでしまうほどに。
 戸惑いを裏へと押し隠して、遥は「逃げんなよ」と腕を離した。
「逃げてなんかない。人聞き悪い言い方しないでよ」
「あからさまに俺を避けてんじゃねぇか。あれは言い過ぎたって…謝っただろ」
「琢巳くんに諭されて、ね。…いつものことだ、明日になればなんも無かったようになる――そう軽くみてたんじゃない?」
 二の句が繋げない。その通りだ。葵の涙でさえ、軽んじて見ていた。
 だが引き下がるわけにはいかない。気を引き締め直し、遥は食い下がる。自然と声が大きくなった。
「不自然だろっ。クラスメイトで部活も一緒なのに」
「仲良くしなきゃいけないって法律はない」
「なんだよその屁理屈!」
 思わず声を荒げてしまう。
「うるさい。関係ない。ほっとけ」投げ遣りに吐き棄てる。「せいせいするんでしょ!?」
「だからっ…それは…」
 どこまでも平行線だ。取り付く島もない。
「なんで!?一生無理なんだよね!?絶対無理なんだよね!?あたしの気持ち、ばっさり切り棄てておいて、不自然だから腹が立つ!?勝手じゃない。もう振り回されたくない。言動一つ一つに一喜一憂すんの、嫌なんだ…!」
 捲くし立てて一息吐くと、奇妙な沈黙が流れた。
 数秒の後、遥の吐き出す呼気が静かに落ちた。
「…だいたい、毎度ちゃらけて言う上に…毎日だと、本気だか判んねぇよ」
 伝わらない。回数を重ねても、駄目なことは駄目だった。
「そうかもね。…だけど。――だって、仕方ないじゃない。真剣に言えなかった。それでも気持ち判ってほしくて、言い続けるしかなかった」
 葵は俯いて、床に声を落としていく。遥を直視することが出来なかった。
「でも…。勝手なのはあたし、だね。一方的な気持ち言われたって…困るよね。――ちゃんとやめるから。好きだって、もう言わないから。だから代わりに、距離作らせてよ」
「縁を無かったことにする必要なんてないだろ。これまでみたいに、」
 ついと顔をあげ、遥を遮る。
「無理だよ。痛いんだもん。心が千切れそうなのに、遥の隣にいるなんて、あたしには無理。同じように、遥をみることが出来ない」
「葵っ…」
「嫌いになる努力をするんじゃない。好きな気持ちを失くす努力をするんだ。……今までごめん。もう、言わないから」
 葵の顔は泣きそうなほどに歪むのに、雫がみるみる溜まっていくのに、必死に堪えていた。それが零れたら負けだと挑むようでもあり、それを見られるのは嫌だと懇願しているようでもあった。
「…好きになって、ごめん」
 呟いて、言葉は足元に転がった。遥が止める間もなく、走り去っていった。
 胸が痛いのは、傷つけてしまった罪悪感だけだろうか。今すぐ追いかけろという警鐘に、足は動き出せずにいた。
 自分にはかける言葉がない。その事実が、その場に縫い付ける。根がはって、動けない。
 拒絶されるのは辛い。避けられるのも辛い。でもそれ以上に、謝られたことが辛かった。
「なに…やってんだよ、俺は…」
 苛立ちの籠もる声。自身に向かう、苛立ちだった。


[短編掲載中]