『話があるんだ。後で、時間もらえないかな』
 部活の最中、沙月に耳打ちされた。考える間もなく、葵は承諾していた。沙月が見せた一瞬の表情に、そうせざるを得なかった。

「本当は、忘れてなんかないでしょ」
 約束通り葵は、沙月を待っていた。指定された場所――沙月が葵に想いを伝えた場所で。
 向かい合うとすぐ、沙月は切り出した。
 葵にしてみれば唐突な問い掛けで、戸惑っていた。沙月の纏う雰囲気が、常とは違ってみえる。
「紺野のこと、忘れてないんだよね?」
「え…」
「意識的に紺野から遠ざかっているけど、無意識にアイツを目で追ってる」
「いえっ…それは、違っ…」
 柔和な微笑みに、葵の取り繕おうとする声は遮られた。
 いつか本物に変われば、楽になれるかもしれないなんて、淡い期待をしていた。
 遥からそっぽ向いて、忘れたんだって、彼はもう特別な人ではなくて、友達以前の関係でしかないと。自分の認識がそう変化してくれたなら、そしてそれが、本物に変わってくれることを、祈っていた。
 離れていれば、忘れたふりをしていれば、いつかそうなれるのだと。
 沙月は困ったように笑う。やっぱりね、と落胆しているようでもあった。
「僕は君を見てしまうから、判ってしまうんだ。でも、」
 言い淀む沙月の表情が悲しげに揺れた。
「先、輩?」
「前言撤回しても、いいかな…?」
 近づいてくる沙月の顔を見つめるしかなかった。遥への想いを断ち切れず、諦めの悪い自分が恥ずかしく、沙月にこんな顔をさせてしまった罪悪感に苛まれる。
 耳元で囁かれる甘く優しい響きに、泣きそうになる。
「僕は…、――――」
 葵は目を見開き、ゆっくりと離れていく沙月を見上げた。沙月の唇が続きを紡ぐ。
「…だから、お願いなんだけど。抱き締めても、いいかな」
 葵の同意を待たず、優しい引力に引かれた。ぬくもりに包まれる。
「せんぱ…い」
 沙月の腕の中にいながら、葵は遥を思い出していた。一生懸命になって、思い出してほしいのだと、必死になってくれたことが嬉しくて。
 沙月の諦めきれない気持ちを痛いほど共感するのは自分なのに、想いに沿うことは不可能だった。少しの可能性もなかったけれど、想いが消去できなかった。
 沙月はそっと呟いた。「ごめん」と。「諦めるから」と。そして「君を好きになれてよかった」と。
「謝らないで下さい」
 葵は掠れた声で首を振り続けた。謝るのはあたしの方なんです、と。
 目の奥が熱くなる。
 ここにあるのはただ、悲しい片想いだけだった。




 葵は教室にいた。
 薄暗くなった静寂の中、ぽつりと自分の席に座っていた。
 隣の席――遥の席の方に身体を向けているので、遥の立つ入口からでは背中しか見えない。俯いている所為か、物悲しく見えた。
 部活の時、沙月が葵に声を掛けていたのは知っていた。内容は聞こえずとも、雰囲気で普段の何気ない会話ではないことは明らかだった。
 片付け当番を終え、先に帰っている葵がいるわけはないのを承知で、遥は校内を捜した。いないと踏んでいただけに、捜していたくせに、葵の姿を見つけて驚いた。
 ぱちん、と教室内にスイッチの音が響き、遅れて蛍光灯が灯った。弾かれたように葵が振り返る。
 瞠目して声が出せずにいる葵を余所に、遥はゆっくりと近づく。葵は逃げず、そこから動かずにいた。正面に立ち、遥は自分の机に腰掛けた。
 遠回しに言葉を選んでる余裕は無かった。直球を投げる。
「先輩と付き合うのか」
「…なんのこと?」
「さっきの…見たんだ」
 途端、葵の顔で熱が弾けた。遥がむっと眉をひそめたのも見えないくらいに、顔を背ける。
 片付け終了後、着替えに部室へと向かう途中、沙月の腕にすっぽりと納まっている葵を見た。直視できなくて、咄嗟に目を逸らしていた。
「どうなんだよ」
「そうだったとしても、紺野くんには関係ないと思うけど」
 引け目だとか意地だとか、一瞬で消し飛んだ。体裁も意地も、何もかもを取り去って、今こそ実直に伝えなければ後悔する。そう心が判断した時、自身でも驚くほどにするりと、言葉が滑り落ちた。
「嫌だかんな」
「…え」
 葵の当惑顔の中に、苛立ちすら見え隠れする。
「お前が他の誰かと付き合うのなんて、見たくもない」
 口走っていた。だが率直で混じり気のない、本心。純粋な、遥の気持ち。
 いつの間に、独占したいと願うようになってしまったのだろう。傍にいてほしいと――いたいのだと。
「意味不明。訳判んない」
 葵の声は震えていた。こんな顔をさせたかったわけじゃないのに。
 だからといって、引き下がれなかった。そんなつもりもなかった。今離してしまったら、きっと葵は戻ってこない。二度と。
「お前が傍にいなきゃ駄目なんだ。忘れててもいい。いちから始めるのでもいい。傍にいてくれ。友達でもいいから」
「……それは、無理」
「勝手なこと言ってるのは判ってる。けど、」
 葵の真剣な告白を、忘れたふりしてきたのは他の誰でもない、この自分なのだ。なじられるのは覚悟の上だ。
「勝手だよ。人のこと二回も振っといて、なに言ってんの!?」
 荒げる葵につられて、遥の声も大きくなった。捲くし立てるように、感情的に、でも本心が言葉になる。
「好きなんだ!渡したくない。…俺の、傍にいてほしい」
 ふと、本当に可笑しなくらい不意に、葵の放った言葉を冷静に分析した自分がいた。
 二回も、って…。
「思い出したのか!?」
 咄嗟に、葵の両肩を掴んでいた。答えをちゃんと返すまでは逃がさないぞ、とでも訴えるように。
 様々な色の感情を綯い交ぜにして、葵の表情が歪んだ。けれど真っ直ぐに遥を見つめている。
「忘れてなかった」
「……は…?」
「いや、その。…ごめん。忘れたっての…嘘」
「まじ、かよ…?」
 申し訳なさげに頷くのを見て、一気に脱力。がっくりとうな垂れた。続けて羞恥心が込み上げる。本気だったとはいえ、勢い任せに告白したのだ。
 顔、上げらんねぇ!
「遥」
「…んだよ」
 葵の顔が見れないままに離れると、ぷいと背中を向けた。一生まともに顔見れないんじゃないかと思うほどに、熱くて、恥ずかしすぎる。
「本当?」
「なにがっ?」
 ぶっきらぼうに返す。この場から逃げ出しそうになる衝動を制御する。恥ずかしいやら悔しいやら、頭の中がぐちゃぐちゃだった。
 背後から、ふっと息が漏れた。笑声に聞こえたのは遥の気が昂ぶっていた所為かもしれない。葵がからかっているのではないのは理性では判っていても、振り返って誤魔化しついでに思わず大声を出しそうになって、葵の微笑みに遮られた。
 真っ直ぐに自分を見つめる葵の目が、柔和に細められる。目が合ったのは一瞬だけで、気がついたら葵は腕の中にいた。
「遥。大好き。ね、も一回言って?」
「ばっ…。言えっかよ」
 常の調子に戻って葵は軽口調を叩く。葵との壁がなくなったのが、素直に嬉しかった。不満気な声を出しつつも離れようとはしない葵を、これまでとは違う心持ちで見つめる。
 ふっと口元を緩め、抱き寄せた。顔を埋めさせ、囁く。
 抱き締め返す葵の腕がそっと、力を込めた。




[短編掲載中]