調理実習の班分けは事前にくじで決められていた。葵だけが別で、調理台も対極線の端と端。声も聞こえない位置関係だ。
 適当に手を動かしながら、話題はつい先程の葵のことになる。不自然さの全く無い返しに、驚かされっぱなしになったままだ。頭の中を整理するのに、班が離れたことは幸いだったかもしれない。
 三人は顔を寄せ合うようにしてヒソヒソと話す。琢巳はいつになく真顔だ。
「さっきのあれ、冗談じゃないよな?」
 問われた亜理紗は困惑をみせながらも「本気だった。冗談言ってるように見えた?」と返す。
 誰かが「あれはからかっていただけだ」と言えば、例え真実ではないと判っていても、それを信じようとしただろう。あの瞬間だけは葵の意志はなく、憑依した何かが勝手にしゃべっていたと言われた方が、よっぽどマシだった。
「記憶置換」
 突然琢巳が零した。呟くようで、断言するような。
「記憶置換?」
 同時に琢巳を見遣り、遥と亜理紗の声が揃う。
「記憶置換というのを聞いたことがある。辛いこと、苦しいこと。とにかく、自分にとって嫌な記憶を、都合いいように塗り替えてしまうんだってさ」
「つまり葵の場合、紺野を友達以下に設定したってこと?」
「考えられなくもないだろ」
 勝手に進んでいく会話の狭間にいて、遥は湧き起こる憤りを堪えていた。それが真実かどうかも判然としないのに、理由はそれしかないと決め付けそうになる。
 引き金は考えるまでもなく、脳震盪を起こしたことだろう。そして、原因は自分にある。邪険に扱い、葵の想いを真剣に受け止めるのを、先延ばしにした。
 だからって、こんなのありかよ。
 無意識だった。手にしていた菜箸をボウルに叩きつける。中身が飛び出し、自分に撥ねかかる。大きな音がした。周囲の視線が集まった。先生の怒声も遠いものでしかなく、遥は葵の姿を直線的に捉えた。
 葵も遥を見ていた。
 ただその目線には、以前のような色はない。真っ先に駆け寄って、率先して揶揄することもない。親近感の欠片も見当たらない。あるのは、クラスメイトとしての、好奇心的なものだけだ。
 皆が作業に戻れば急に興味を失った顔で、あっさりと背を向ける。
 むかつきは収まらない。
 各自が調理を再開してしばらくした頃、手を動かしながら琢巳は遥に言葉を投げ付けた。ぶっきらぼうとも言える言い方だ。
「お前が望んだんじゃねーのかよ」
 厳密に言えば、違う。口にしそうになって、飲み込んだ。屁理屈に思えた。
「…にしたって、むかつくだろうが」
 お門違いな怒りだと自覚はしていた。していたが、止められなかった。琢巳は見越していたように、やけに乾いた声を出した。
「今だけじゃねぇよ。榊が故意に距離を作ろうとしても、わざとらしいって怒ってた。勝手過ぎる」
 ぐうの音も出ない。おっしゃる通りだ。琢巳は容赦なくとどめの一言を放つ。
「自分の発言に責任持つべきだ」
 手遅れかもしれないけどな、と琢巳の目が忠告した気がした。




「記憶置換だか何だか知らないが、黙って待つのは性に合わない!」と、いきり立った。
 様子を見た方がいいだの、そっとしておくべきだの、意見が囁かれる中、遥はことあるごとに葵の傍にいた。歪み逸れたモノを修正すべく、自分を思い出してもらう為に。
 忘れられるのも辛いものかもしれない。けれどきっと、なかったものとされるのも同じくらい辛い。この今ある執着心を、理由を、見い出すこともそっちのけに、躍起になっていた。
 内部で渦巻く気持ち悪いモヤモヤを、無くしたかった。
 事情を深く知る者も知らぬ者も、皆一様に同じことを口にした。
 ――逆パターンだな、と。
 二人が追いかけっこをしている様は、以前と立場を入れ替えたみたいだった。
 実際のところ、以前は遥が葵を適当にあしらっていたのが、今度は葵がそれをやっていた。否、現状の方が峻烈と言えたかもしれない。
 遥は葵を大事な友達の一人として接していた。今の葵は遥にその認識すら持っておらず、あまりのしつこさに露骨に顔をしかめることもしばしばだ。迷惑だと洩らしているのを聞いた者もいるとかで。
 葵が冷淡に「ただのクラスメイトだ」と言い放ち、遥は「ふざけんな」と激昂する。激しく言い争う姿だけを見れば、これまでの喧嘩風景と変わらないようには見えていたのだが。

 今日もまた、二人の声が廊下に響く。
「だーっ!!埒があかねぇ!いい加減にしろっ」
 背中に向かって叫んだ遥の声を受けて、葵は足早の歩をぴたと止めた。振り返らない。数秒待ったが固まったままだ。所在無き不安に駈られ、横に並び覗き込んだ遥に、ゆっくりと首を巡らせた。ほとほと呆れ返った瞳が突き刺さる。
「なんで怒るわけ?」
 気迫ともいえる雰囲気に圧される。平坦極まりない声が続けられた。
「事実を言ってるだけなのに。訳判んない」
「事実じゃねぇ」
「あたしに、紺野くんが友達だったって認識はないよ」
 冷淡な言葉に返す言が見つからない。引き下がるわけにはいかない、という意識だけが先走り、焦燥だけが遥を支配する。構わず葵は続けた。
「だって、付き合ってたとかじゃないんでしょ?彼氏じゃないんでしょ?ムキになる必要、ないんじゃないの?」
 喉が詰まった。込み上げる感情の塊が呼吸を妨げているようだ。
 黙っては駄目だ。引いては駄目だ。怯んでは駄目だ。どこかで声がした。遥の内側から叱咤する声だ。ここで諦めたら終わりだ。大きく息を吸い込む。
「そうかもしんない。けど、単なるクラスメイトじゃないし、単なる部活仲間じゃねぇ」
 一気に吐き出した。目の前の葵は表情を動かさない。無表情のようで、ともすれば、見透かしてるような印象もある。
「だったら、なんだったの?あたし達の関係って。そんな特別だったの?」
 また、喉が詰まった。奮い起こすだけの勢いも、削がれていた。
 不意に思い出した。亜理紗の声だ。
 葵の言葉に、表情に、散々驚き入った後、少しだけ落ち着いた後、葵に投げ掛けた。
『あんたはね、本当に紺野のこと、好きだったんだよ。覚えてないの?全く?』
 葵は、本気で驚いていた。そして、決定打を放った。
『それって恋愛の好き?なんで?だって親しくもないのに。よく知りもしない人を、好きになったりしないよ』
 当たり前で、永遠で、変わらないことなど、何一つなかったんだと、こうなって初めて判った。
 回帰した思考に囚われていた遥を置いて、少しの情も置かずに葵は背を向けた。去っていこうとする背中を、止める術を知らない。
 残されたのはただ、痛みを伴う虚無感だけだった。


[短編掲載中]