白露庵を選んだのは、気まぐれだった。
 “白露”という名前に惹かれたから。ただ、それだけ。
 何故その名に惹かれたのだ、と問われたら、答えることは容易い。容易いけれど、自虐ともいえるその理由を口にしたことは、まだ一度もない。
 優しくあたたかな想い出を振り返らない為に、誡めが必要だった。
 流されてはいけない。それが自分の為なのだと、ずっと言い聞かせてきた。

 だから平気。
 縋るものなど、無くなってしまった方が、楽になれた。
 だから、平気。
 期待を持たなければ、裏切られることはない。傷つきたくないから、哀しくなりたくないから。

 あんな想いは、二度としたくない。



◇◇◇



 目蓋を持ち上げて一秒後、かちりと音がした。それが目覚まし時計の騒ぎ出す合図だと知っていたから、芳越柚乃は素早く手を伸ばしてスイッチを切った。
 夢見が悪かった所為か、頭が重い。
 鈍重な動きで上半身を起こし、枕元に置いていた目覚まし時計で時間を確認する。沈黙するさまは、出番を前にお役御免となったことに、文句を述べているようにも見えた。カーテン越しに感じる陽気は、天気のよさを窺わせる。平穏な一日の始まり。いつもと変わらない日常が始まる。
 夢の所為で胸の奥が重く感じた。無意識のうちに視線が机の引き出しへと向かう。苦笑と共に、ゆっくりとかぶりを振った。
 懐かしい夢だった。優しくあたたかな想い出。現実のひとコマ。――忘れようと努力した、記憶。
 引き出しの奥には、想い出の欠片が眠っている。
 純粋に信じていられた時が一番幸せだった。信頼は消え、決別を決めたあの日から、自身の中に渦巻く息苦しい感情が凪ぐまで、柚乃は己との闘いを遣り過ごしてきた。
 勝ったかどうかは、不明。けれど今、安穏とした時間を過ごせている、と言える。選択した路は、間違いではなかったのだと、胸をはって言える。
 誡めに選んだこの場所が、落ち着ける場所となった。
 夢の残滓を振り切るように大きく頭を振って、布団から抜け出した。珈琲の香りが鼻腔をくすぐる。階下からの、部屋中を満たす朝の香りだ。すっかり日常のものとなったそれも、柚乃にとっては大切で。
 身支度を整え、階段を下る。扉一枚隔てて踏み入ると、喫茶店へと繋がっていた。朝食は家族全員でとる、というのがこの店のオーナーである嘉瀬隆人の信条だ。
 アンティークを基調とした家具で統一された店内は、独特の空間を保っていた。店名に惹かれたのが始まりだったが、柚乃はこの店の雰囲気も気に入っている。
 昼前にオープンし、夕方に喫茶店は閉店。三時間の準備時間をおいて、夜はバーへと変身する。照明を落とした店内は、昼間とは違う顔を作り出す。
 日中は学校がある為、夕方の準備時間帯と週末の喫茶店営業を手伝っていた。他に二つほどバイトを掛け持ちして収入を得ている。
 喫茶店『白露庵』に繋がる居住区のひと部屋を借りて住んでいて、家賃は払っていなかった。その分を労働で返してくれ、とはここで働き出した当初に隆人に言われた台詞だ。
 もう何年も前の想い出を夢に見た所為か、ここにきた頃のことまで思い出して、口元が緩んだ。
 扉を開け、朝の光をいっぱいに満たしている店内へと入っていく。
「おはようございます」
 いつものようにカウンター内で珈琲を淹れている隆人と、奥で朝食を作っている隆人の妻――伊吹に向けて挨拶をする。
「はよっす」
 隆人の淹れる珈琲は評判がいい。常連客のほとんどは、これを目当てにしてきているし、柚乃もここにきてから珈琲が飲めるようになった。淹れ方を教わってはいるのだが、まだまだ隆人の足元にも及ばない。
「おはよー、柚乃ちゃん」
 軽やかな包丁の音をいったん中断させ、伊吹が声を上げる。調理場は奥に引っ込んでいて、店内からは見えない造りになっていた。
 伊吹の料理の腕前は堅実で、柚乃はこちらも修行中だった。調理場へ入り、テーブル拭きを濡らす。朝の仕事分担だ。
 隆人が飲み物を用意し、伊吹が朝食を作り、柚乃は店内のテーブルを拭いて廻る。そう広い店内でもないので、柚乃の仕事はあっという間に終了してしまうのだけれど。
 これがいつもの朝の風景だった。
「柚乃ちゃん具合でも悪い?」
 朝食を乗せたプレートを器用に三つ持って調理場から出てきた伊吹は、心配を滲ませた面持ちでまじまじと柚乃を観察する。隆人も手を止め同様にした。
「いえ。大丈夫です」
 怪訝さを払拭しきれないでいる伊吹に笑顔を作ってみせた。本当に具合は悪くない。
「それならいいんだけど…」伊吹は不承といった様子だ。
「心配事があんなら言えよ」隆人は怪訝な顔つき全開で。
「そんな顔、してます?…あ。夢を見たんですよね。その所為でしょうか」
「悪い夢?」
「逆です。懐かしい夢でした。施設にいた頃の、想い出です」
 できれば消滅してほしい記憶です。とは口にしない。
 人に語れば『優しくあたたかい想い出』と言える。柚乃にとってはその温度こそが、瑕だった。
「施設で一緒だった子達とは今でも連絡取ってる?」
「はい。家族みたいな存在ですから。あーゆう関係って、幼馴染みって言うんでしょうか」
「そうね。家族で、友達。今度連れてらっしゃい」
 喜色を滲ませ大きく頷くと、ようやと伊吹も安心した表情になった。

 柚乃は四歳から十四歳までの間、施設にいた。身寄りのない子供達を預かるところだ。そのことを隠してはいないが、公言もしていない。
 嘉瀬夫妻のところに転がりこんだきっかけは、アルバイト募集の貼り紙だった。偶然通りかかった場所にあった『白露庵』という名の店。近づいてみて、貼り紙を見つけ、気づいたら扉を開けていた。
 三人暮らしが始まって、もうすぐ二年が経とうとしていた。この生活に馴染んでいるし、店の常連ともすっかり仲良くなっている。ひと廻り歳の離れた二人は、時には兄姉のように、時には親のように、柚乃と接してくれている。家族として、暮らしてくれている。居心地はとてもいい。


[短編掲載中]