朝食の準備が整い、カウンター席に近い四人掛けのテーブルに揃って座り、いただきますをする。穏やかでゆったりとした時間の中で朝食と会話を楽しむ。二人とも店が忙しいので、じっくりと顔を合わせていられるのは朝くらいなものだった。
「柚乃ちゃん、今日バイトだっけ」
「はい。最近忙しくなってるので、少し遅くなるかもしれません」
「迎えに行くか?」
 トーストを運んだばかりの口で隆人は発声し、伊吹に一瞥をくれられた。
「平気です。隆人さんがお店抜けるわけにはいかないじゃないですか」
 バーテンダーである隆人が、バーである時間帯に抜けられるわけはない。
「だよな。じゃー伊吹が…」
 白羽の矢を妻に立てようとするので、柚乃は遮った。
「大丈夫ですってば。心配性ですね、隆人さんは」
「柚乃ちゃんには優しーんだから」伊吹は呆れて息を吐く。
「あったりまえだ。大事な娘だからな」
 隆人は何故か得意げにふんぞり返る。柚乃は笑い、伊吹はますます呆れ返った。
「終わったら電話入れますね。それで、寄り道しないで帰ってきますから」
「あ、今日ってお給料日だよね。もしかして隆人、それが狙い?」
 妻は冗談めかして夫を斜に見る。
 今日のバイト先は今時珍しく、給料は手渡しだった。最近ずっと詰めて働いていたので結構もらえそうです、と先日話していたばかりだ。
「ばれたか。…って、あほか」一人のり突っ込みをしておいてから、つと真面目な顔つきになる。「となるとだ。やっぱり伊吹さ、抜けて迎えに行ってやれよ」
「そうだね。車使えばすぐだし」
 二人が同意見になったところで慌てて割って入る。
「ほんとに、平気です。それでですね、お給料も入るので、」こんな場合は話題を逸らすに限る。「隆人さん誕生日近いですよね。ほしいもの、ありますか」
 あ、と小さく洩らしたのは、伊吹だ。忘れてたのか、という視線を隆人は送ってから「ないな」とあっさり。
「あまり高いものは買えませんがなにかひとつくらい…」
「んじゃー、お金じゃ買えないもの。プライスレス」わざとらしいカタカナ英語発音で、カード会社のコマーシャルの謳い文句を付けた。「柚乃にお願いがあるんだ」
 隆人の笑顔に含まれる真意には予測もつけられないが、お願いされるのは初めてだった。どこか嬉しくなる。
「内容に…よりますけど」
 警戒を滲ませるのを忘れずに、話を促す。
「敬語やめない?距離つくられてるみたいで厭なんだ」
 本当に予想がつかない内容だった。普段の隆人からでは連想できないお願いだ。
 あまり見られない真剣な眼差しに、どっからか揶揄したい衝動が湧いてくる。伊吹の影響かもしれない、とよぎれば、くすぐったい感触で心が満たされた。
「いいのですか?今時の女子高生言葉なんて、会話にならないですよ?」
 あくまで表面は真面目に受け答えしている体勢をみせた。
「いや。会話にならない言葉遣いはいらなくて」
 思ってもみなかった回答に隆人は詰まる。根が真面目な柚乃が、よもや冗談を言うとは想定していなかったらしい。
「隆人さん、ヘコんじゃうかもですよ?」
「そーゆうことじゃなくてさ。せめて、ですます取るくらいの…」
「あたし、砕けたら留まるところを知らないですよ?覚悟して下さいね」
 気迫ともいえる柚乃の押しに押され、隆人は助け船を求めて伊吹に視線を送る。
「一回いじけるとしばらく大変だから、そのへんで止めてあげて?」
 伊吹は柚乃の冗談を判っていて、堪らず噴き出した。
「すみません、つい」ごめんなさい、と脱力している隆人に向かって謝る。「でも…無理なんです。癖なんですよね。これも個性です。認めてくれませんか」
 あたしは距離作ってるつもりはないですから、と強調した。
 柚乃が誰にでも丁寧語を使うようになったのは、施設にいた頃からだ。信じていたものが音をたてて崩れ去った時、殻を作るのに選んだ。

 ――いつか絶対、迎えにくるから。
 その言葉を、約束を、信じていた。強く、堅く、揺るがないものだと、信じていた。けれどそれは、弱く、脆く、簡単に崩れ去った。
 優しい想い出はあの瞬間から、柚乃を闇へと落とす瑕となった。
 シロツメクサの花飾りも、草原の緑の匂いも、川のせせらぎも、あたたかな陽射しも。総て消去したい記憶になった。
 裏切りの言は、幼心に深く突き刺さり、腐食した。そこから広がろうとする腐敗を止めるには、殻で覆うしかなかった。

 ――お兄ちゃんっ!どこ!?
 耳に残る、我が声。幼さ特有の軽やかなトーンで、兄を呼んだ。
 草原に出掛けていた週末の昼下がり。どっちが先に見つけるか競争だ、と始めた捜し物に夢中になっていた所為で、気づいた時には兄の姿が見えなくなっていた。不安な心持ちに、涙が目の淵に溜まっていく。草に埋もれていた兄が、ひょっこりと顔を出す。妹との距離が離れていたことに驚き、慌てて駆け寄ってきた。半べそ状態の妹の頭を撫で、捜していた物を顔の前に差し出した。
「ごめんごめん。でも見つけた。…ほら、ゆんにあげる」
 妹の手をとり、見つけたばかりの四つ葉のクローバーを乗せる。
「俺の勝ち、だな」
 悪戯っぽく笑う兄も、柚乃とはひと廻り年齢が離れているとはいえ、少年の域を出ない年齢だった。なのに、突然の事故で両親を一度に失った時、兄は泣かなかった。少なくとも、柚乃に涙は見せなかった。妹を護るのは自分の役目だと、誓ったのかもしれない。幼すぎた柚乃は、全身全霊で兄に寄り掛かることしかできなかった。
 施設近くの河原は、二人の想い出の場所だ。
 当時、柚乃は四歳。兄は十六歳だった。トンネル崩落事故に遭い、両親を失った。事故後、兄妹揃って施設に預けられた。両親の親類とは、柚乃が産まれる前から縁を切っていた為だ。
 両親がいないことへの寂しさは当然あったが、必要以上寂寞感に囚われなかったのは兄のおかげだった。ようやと施設にも慣れてきた頃、兄に里親の申し出があった。そして兄が施設を出る日、約束した。
 必ず迎えにくるからと。いつかまた、一緒に暮らそうと。
 絶対の信頼が厚ければ厚いほど、一度崩壊してしまえば元には戻らなくなる。柚乃は時機を待って、自身を追える痕跡を封印し、施設を去った。
 兄は自分を棄てた。だから、柚乃も決別を決めた。それ故に、施設を出る時、堅く緘口を依頼した。痕跡を辿れないように、と。皆無に近い可能性でも、気の変わった兄が自分を捜さないとは言い切れない。
 この世に絶対なんて、そう有りはしないのだから。


[短編掲載中]