着信音が鳴って、柚乃は携帯電話をマナーモードにしていなかったことに気づいた。この音楽はメールではなく通話の方だ。朝から鳴ること自体が稀有であり、電車に乗り込む前に確認し忘れていたことを悔やむ。が、今ここで悔やんでいたところで鳴り止むわけでもないので、慌てて鞄の中を捜索した。焦れば焦るほど、普段ならすぐに見つかるものも見つかりづらくなるもので。
 次で降りる駅だったのに。あと少し遅ければ。嘆きつつ焦る。
 徐々に集まりつつある周囲の視線から逃げるようにして俯き、鞄を探る。やっとのことで音源を発見し、しかと手に掴み、引っ張り出して――ホームに滑り込んだ電車はブレーキをかけ、その思わぬ強さに電車内部の乗客達は一斉に同方向へと傾いだ。
 電車が停止し、体勢を立て直した乗客達から、急速に速度をおとした運転手への舌打ちやら、隣の人の足を踏んでしまったことやぶつかり合ったことに対する謝罪の声が上がった。柚乃の手からは携帯電話が、すっかり姿を消していた。着信音は止まり、床に転がっている。何事もなかった顔をして開いた扉の外へ、ホームへと降り立つ人々が列を成して電車から吐き出されていく。
 柚乃も学校へ行くにはこのホームに降り立つ必要がある。でも今は携帯電話を拾わなければ。踏まれたら目も当てられない。白露庵での収入とアルバイトで貯めた貯金はできれば手をつけたくない。自立資金は少しでも多いにこしたことはない。
 いつか嘉瀬家を出ると言ったら、二人はどんな反応をするだろうか。
 隆人に言えば新しいのを買えばいいとお金を出してくれるだろうけれど、それはしたくない。極力迷惑はかけたくなかった。
 しゃがみ込めれば拾える位置にあるのに、動き出した列はそれを許さなかった。柚乃諸共ホームへと流れていく。あれよという間に電車の外へと押し出された柚乃はなんとか列からはみ出て、たった今出てきたばかりの昇降口を振り返る。ぷしゅう、と間の抜けた音を発し、扉は閉まった。
「あーあ…」
 成す術なく茫然と、次の駅へと向かう電車を見送った。運良く踏まれなかったとしても誰かが拾ってくれるだろうか。届けてくれたら有り難いけれど。
 改札口へと向かう人の群れも空いてきつつあり、行ってしまったものは仕方なし、と見切りをつけた。駅事務所に届けを出しておこうと方向転換する。
「芳越さん」
 自分を呼んだ声に振り返ったのはいいが、声の主に驚いた。
「…汐見くん」
 同じ学年で隣のクラス。顔と名前は知っているが口をきいたことは一度もない。
 汐見唖津といえば、学校で知らない者はいない。
 会社を一代で大企業にまで成長させた社長の次男。加えて資産家。豪邸暮らし。噂では婚約者がいるとかいないとか。いわゆる上流階級の人間だ。なのに、同類のレベルの人達が通う学校には通わず、柚乃達のような一般の子が通う公立高校に籍を置いている。
 親や先祖が凄いだけだよ、と家柄の類を鼻にかけることはない。らしい。本人はいたって周囲に馴染んでいるものだから、変なやっかみが発生したこともない。らしい。
 噂でしか知らなかった人物が自分の名を呼んだことに驚かないわけはない。こっちは知っていても、相手が知っているとは露程も思っていなかった。
「おはよ」
 そんな柚乃の心情を知ってか知らずか、友人に話し掛ける軽やかさで挨拶を向けてくる。
「え。はい。…おはよう、ございます」
「これ、芳越さんのだよね」
「あ…」
 落ち着かない心持ちのまま挨拶を返し、差し出された唖津の手に乗っている物に、思わず笑みが零れた。柚乃の携帯電話だ。
「拾ってくれたんですね」
「すごい勢いで波に流されていったよね」
 唖津はつい先ほどの情景を思い出しているのか、可笑しそうにしている。はい、と言って携帯を渡してきた。
「ありがとうございます。よかったです。ホームに出ちゃった時には諦めてたので」
「いつもこの時間?」
「はい。あの電車です。汐見くんもですか?電車に乗ってるの、意外です」
「イメージじゃない?」
 捉え方一つで厭味にもとれそうなことを口走っていたことに対して、茶目っ気たっぷりに唖津は問い返す。
「ごめんなさいっ。そういう意味じゃなくて」
「判ってる。言ってみただけ」
 唖津に気にした様子は全くない。
 勝手な想像だけれど、お金持ちイコール送り迎え付き、みたいなイメージはあった。電車を使うイメージが無い、ともいう。幾度となく「勝手な想像」をぶつけられてきたのだろうか。返し方や受け流し方に、慣れている感じが滲んでいた。それらを考えなしにやらかしていて、申し訳ない気分に陥る。
「あれ?」
「はい?」
 唖津はずいっと顔を近づけて柚乃の顔を観察する。急激な至近距離に仰け反って柚乃はたじろいだ。
「な、なんでしょう」
「眼鏡…伊達?」
 慌てて顔を逸らす。
「えと。これは、そのっ…」
 咄嗟には言い訳が思いつかず、しどろもどろになる。正面きって問われたことがなかった。適切な理由が思い浮かばない。
「変装だ?そうだよねー。芳越さん可愛いもんな。男避けでしょ」
「へ?あの。違っ…その、か、からかわないで下さいっ」
 唖津はきょとんとする。
「なんで?俺、大真面目だよ」
 心外だなぁ、と冗談めかしてぼやく。
 勝手なイメージを持っていたとはいえ、イメージがあまりにも違いすぎだ。けれど、こんな屈託無い性格の持ち主ならば、周囲の好意を受けられるのは当然に思えた。
「ま、とにかく。ケータイも無事に戻ったことだし、学校いこ?」


[短編掲載中]