夜時間帯、つまりバーとなる時間帯に、柚乃は白露庵への立ち入りを禁止されていた。
 未成年でも法律で定められた時間を守れば仕事を手伝うことは可能なのに、隆人は「我が家の法に触れる」などと訳の判らない主張を通していた。隆人が厳格に禁止を言い渡すのには他にも理由がある。
 学校が終わってそのままアルバイトに出向き、今朝の約束通り真っ直ぐ帰路についていた時だった。駅の改札を出た丁度に着信が鳴った。相手は伊吹だ。
 買物を依頼され快諾。予測以上に注文が次ぎ、材料不足になってしまったのだと、伊吹は申し訳なさそうに言った。多事多端が声に滲んでいて、白露庵が混んでいる様子が目に浮かんだ。
 鈴の音と共に扉を開けると、白露庵には日中とは全く違う雰囲気が漂っていた。芳醇な香りがほんのりと店内を満たしている。
「いらっしゃいま…おー、柚乃。悪かったな」
 いち早く反応していたカウンター内の隆人は、安堵した表情を見せた。
「柚乃ちゃんごめんねー。助かった」
 注文をとり終えたばかりの伊吹もカウンターへとくる。
「重かったでしょう」
 受け取るよ、と出された伊吹の手を目顔で押し留めた。
「仕事続けてて下さい。仕舞うくらいならできますから」
「そう?助かる」
 伊吹は慌しく次の接客へと戻っていった。あっさりと任せてもらえるのは嬉しい。些細なことで浮き足立つ自分が可笑しくなる。だけどこれは、柚乃にとっては些細なことではない。他人にはとるに足らないことでも、柚乃には存在を認めてもらえていると同等だった。
「おかえりー、柚乃ちゃん」
「真木瀬さん、こんばんはです」
 カウンター席の奥から二番目に座り、柚乃に向かって片手を上げる。そこが真木瀬の定位置だった。
 真木瀬は隆人と伊吹の同級生で、白露庵開店当初からの常連でもある。学生時代からの長い付き合いで、隆人は往々にして真木瀬を邪険にしがちだが、傍目で見る限りいいコンビだった。
「仕事帰りですか?早いですね」
 柚乃は購入物を手馴れた速度で仕舞っていく。
「ぶん投げてきた」あっけらかんと真木瀬は言って、辟易した笑顔を見せた。「金曜なのに、やってられっか」
「大丈夫なんですか」
「へーきへーき。明日出勤してやりゃぁどうにでもなる」
 愚鈍なわけではなく、単に一人分の仕事にあてるには許容オーバーなだけなのだと、以前隆人から聞いたことがある。優秀故に任せられる量を増やされるだけなのだと。
 普段、真木瀬をけなすことしかしない隆人が言うのだから真実と判断できる。なんだかんだで、仲がいいと柚乃は踏んでいた。当人達に言うと露骨に嫌そうに、同じ反応をするのが可笑しい。
「明日、ランチ頼んでいい?柚乃ちゃんが忙しくなければ、でいいんだけど」
「いいですよ。届けますか?」
 真木瀬の会社は白露庵から近い。平日で残業の真っ最中に抜け出して食事を摂りにくることもあれば、柚乃のバイトが無い週末などはランチボックスの配達を依頼することもある。これは常連の特権、特例中の特例措置だ。
「伊吹さんに作ってもらいましょうか。美味しいの食べた方が仕事も捗ります」
「いーんだ。柚乃ちゃんが作ったのを食べたいんだよ、俺は」
 ランチのメニューは伊吹が考える。材料が同じで作るものも同じ。腕の違いで伊吹の作る料理の方が格段に美味しいのだが、真木瀬は柚乃の手作りを注文する。
「材料に申し訳ないです…。早く修行の成果が出るといいんですけどね」
 苦笑を洩らす。
 施設にいた頃、食事の用意は職員の仕事ではあったが、手伝いを当番制で行っていた。いずれ社会に出る為の準備だ。ひと通りのことは出来るが、不器用なのか味音痴なのか、伊吹ほどの腕前に追いつくにはまだまだ遠い。
「成果なら出てるって。最初の頃なんて、」
「真木瀬さんっ。その話はいいですって」
 顔を真っ赤に染め上げる。
「柚乃、仕舞い終わったなら部屋戻れよ」
 主に人を揶揄することに興を置いている真木瀬の餌食に掛かる前に、隆人が横槍を入れる。真木瀬の不満顔が隆人を軽く睨んだ。
「邪魔すんなよなー。お前は黙々と仕事してりゃあいいんだよ」
「柚乃を引き止めんな。てか、油売ってる間に仕事できんだろが。会社戻れば?」
「客に対してその言い草はなんだ。売上げ貢献してやってんのに」
「その分邪魔されたんじゃ営業妨害だ」
 本気とも冗談ともつかない険悪ムードの合間に柚乃はひょいと身を乗り出した。
「隆人さん、お客さん呼んでます」
 テーブル席を指し示し、オーダー票を差し出す。
「あたし、行きますか?」
 酒の種類なら大体頭に入っているし、食事メニューなら完璧に暗記していた。
「あほう。はよ部屋戻れ」
 いいな?と、取り上げられたオーダー票で軽く頭を小突かれる。
「どんだけ過保護だよ、あいつは」
 接客に向かう隆人の背中を見送りながら、心底呆れたように真木瀬は溜息を吐いた。柚乃は曖昧に笑って誤魔化す。
「柚乃ちゃんさ」切り替え早く表情を変えると、真木瀬は手招きした。「白露庵の由来、知ってる?」
 脈絡なく話題を転じるのは真木瀬の特技だった。最初こそ戸惑っていた柚乃も、今ではすっかり慣れたもの。
「さあ。聞いたことないですね、そういえば」
 内情を隠す為に空とぼけて首を捻る。


[短編掲載中]