この店を選んだのが、後ろ向きな理由で店名に惹かれたから、なんて話はしたことがない。話さない限り知られることはないのに、矛先がいつ向くかと思うと心地が落ち着かなくなる。
「二人が出逢った日、らしいよ。ちょうどその年のその日が白露だったらしい」
 あの顔でよく言うよなー、と笑う。
「三人は同じ学校の同級生なんですよね」
「見事に三年間、クラスは一緒にならなかったけどな」
「出逢いが九月って変じゃないですか?」
 高校時代の話を聞く機会はあったけれど、転校の単語は聞いたことがない。
「お、鋭い。正確には『存在を認識した日』か。いわば隆人の一目惚れってやつだな」
 自分で発言しておいて、あの顔で一目惚れもねーよなー、と更に笑う。どの顔ならばありなのか、柚乃には判らない。
 真面目に語るには確かに恥ずかしいかもしれないが、店名に込められた想いに、後ろめたくなった。己の持つ理由とは、正反対の位置にある。自分がここにいること自体が、申し訳ない。
「笑いすぎです、真木瀬さん。素敵じゃないですか」
「柚乃ちゃんはほんと、可愛いね」
「誰かれ構わず言ってると、いつか刺されますよ?」
「誰かれ構ってるって」からから笑う。本気がまるで見えない真木瀬は続けた。「夜は出ないの?柚乃ちゃんいたら集客増えるよー」
 可愛いからねー、と真木瀬は延長戦を挑んでくる。
「あたしは出てもいいんですけど…」
 真木瀬の揶揄はあっさり聞き流しておく。
「お前みたいのがいるから、絶対だめ。第一、柚乃は未成年だ。店に出したら俺がしょっぴかれる」
 柚乃を居住区へ戻すべく、再び隆人が割って入ってくる。
 定められた時間帯内であれば問題ないことを隆人も真木瀬も知っている筈なのに、酒場で未成年は働けないと言い張る。それを前提に話が進んでいくのが常だった。
「そうなったらあとは俺に任せとけ。柚乃ちゃんを嫁に迎え、蕪矢を支え、見事この店を護ってやろうじゃないか」
「ほざいてろ」
 隆人はすげなく返す。すでに日常会話化してる遣り取りだった。真木瀬は軽口ばかりを叩くので、どこまでが本気なのか全く読めない。というか、この手のネタには本気は含まれていないと柚乃はみている。ことあるごとに、挨拶代わりに柚乃にプロポーズをする。本気にとれという方が難しいというものだ。
 平日週末問わず日中夜間問わず神出鬼没で、外勤の合間に寄ることもあれば、仕事が早く終わった(大抵は今みたいに放り出した発言をしている)と飲みにきたり、暇だからと少ない休日に顔を出したりする。かと思えば、数日これなかったり毎日きたり、ということもある。
 すっかり顔馴染みとなっている真木瀬の口癖は、「隆人は奥さんがいて、柚乃ちゃんまでいてずるいだろう。だから柚乃ちゃんを俺にくれ」だ。「だから、の脈絡が全くない」と取り合わない隆人だが、友人でなければ白露庵の立ち入り禁止を発令されていただろう、とは想像がついた。
「真木瀬さんって、伊吹さんのこと旧姓で呼びますよね」
 ついでとばかりに、以前からの疑問をぶつけてみた。蕪矢とは伊吹の旧姓だ。夫婦別姓は名乗っていないので、今は嘉瀬伊吹となる。
 柚乃の知る限りでは伊吹をそう呼ぶ人はいない。真木瀬が呼んでいるので旧姓を知った具合で。
「高校の時から変えてないってことですか?」
 結婚したからといって、変えるのは難しいものなのかもしれない。それが異性だと特に。
「それはまぁ、違うんだな」ちらりと隆人を見る。「他の男に下の名前は呼ばせたくないみたいなんだわ。禁止令出てんもん。柚乃ちゃんさ、気をつけた方がいいぞぉ。独占欲強いから、こいつ」
「真木瀬っ」
 露骨な揶揄にムキになっている。
 柚乃は曖昧な笑顔を作ってそろりと足を動かした。あまり長居をしていると隆人の機嫌が本気で悪くなりそうだ。居住区へ帰ろうと方向転換しかけたところで、鼻を掠めた気配に立ち止まる。あ、と声を上げた時には、眼鏡を取り上げられていた。しげしげと観察している。取り返そうと手を伸ばし、空を切った。
「やっぱ伊達眼鏡だよなぁ。素顔隠しちゃうなんて勿体無い」
 真木瀬は真剣な口振りだ。
 今朝のことを思い出し、同じようなことを言われたな、と唖津の顔がよぎった。
「お洒落眼鏡で、ってわけでもないよねー?……あ」
 眼鏡から柚乃に視線を移し、今度は顔面をしげしげと観察され、至近距離に仰け反る。
「泣きホクロ発見―!」真木瀬はどこか嬉しそうだ。「これ付けると丁度隠れんのか」と、どこか残念そうにする。
 どきりとした柚乃に気づいた様子はなく、「はい、お返ししまーす」と眼鏡を元の場所にかけ戻す。目線の高さを合わされ、またもやの至近距離に一歩退いたのと同時に、真木瀬の横っ面におしぼりが飛んできた。犯人は隆人だ。
「やめんか。エロじじい」
「じじい…って。同級生だろが。俺、そんなにヤバイ?」
 文句を述べ、後半は柚乃に問い掛ける。
「あ…いえ」
「じゃー俺んとこ嫁にこない?」
 柚乃の否定に気を良くし、懲りた様子は全くない。隆人の不機嫌などなんのその、らしい。
「お前に柚乃はやらん。セクハラすんなら帰れ」
 止めるべきか放っておくべきか。間に挟まれている柚乃は悩む。こんな時、伊吹に助け船を求めようものならまず間違いなく真木瀬に加勢するだろうから、それだけはしないでおこうと結論づける。伊吹と真木瀬は、人間を大きく分類するならば同種に入る。
「ひと廻りしか離れてないんだから、父親気取るには無理あんぞ?」
「父親なんだよ、俺は。血の繋がりなんざ、クソ喰らえ、だ。可愛い娘をお前なんぞに預けられるか」
「養子縁組拒否られてるくせに」
 大仰な溜息と共に真木瀬が意地悪を軽く言う。
「てめっ。痛いところを衝くんじゃねぇ!」
 決して表には出さないが、隆人が常に心のどこかに、その事実を引っ掛けているのは柚乃も知っていた。明確な理由を説明しない柚乃を気遣って、追及してこないことも。
「もー。誤解されるような言い方しないで下さいよ、真木瀬さん」
「誤解もなにも。嫌なんだよねー?こんなのが父親になるかと思うと」
「そうじゃないです!ただ…」口籠もる。
 口にはできずにいた。きっと知ったら隆人は怒るだろう。悲しむだろう。もしかしたら、不甲斐無い、と落ち込むかもしれない。
 隆人も伊吹も里親には申し分ない。家族の一員になれたら幸せになれると確信は持てる。だからこそ、受けられなかった。二人はまだ若い。自分のような歳の子供を持つには、若すぎる。
 縁組を断るのは双方にとっての最善だ。と柚乃は考えている。
 夫妻が何故養子縁組を申し出てくれるのか。理由は単純だ。単純だが、軽んじて見れる類のものではない。二人には子供が出来ない。とてもとても欲しいのに、現実は無情だった。医者から宣告されて久しい、と聞いている。
 不妊治療は諦めずに続けている。らしい。二人の口からそれを聞いたことはないが、知っていた。
 奇跡が起きて二人の間に血の繋がった子供が出来た時、自分の存在が疎ましく思われるかもしれない。そんな時の為に縁組はしない方がいい。などという心配はしていない。
 否、そうはならないと、信じたいだけなのかもしれない。
 本当はどこかで疑っていて、怖いだけなのかもしれない。
 できるなら、ずっとここで暮らしたいと願う気持ちはある。そうならない予感もあった。そしてそれは、高確率であたる予測だと思っている。
 初めて白露庵を訪れた時、柚乃の内側は複雑に絡んでいた。自身でも解く術を見つけられないほどに。その頃にはすでに表面を作る方術を得ていて、嘘で誤魔化すことを完璧にこなしていた。筈だった。


[短編掲載中]