白露庵、営業中。
 ランチタイムも終了に近づいた刻、戦闘然とした忙しさは落ち着きを見せつつあった。
「パーティ?」
 柚乃はトレイを胸に抱え込んで、きょとんと兄を見る。彼が発した台詞の中でも馴染みの薄い単語に、疑問符をつけて問い返した。
 注文をとり終えた柚乃がカウンターを抜け、奥の調理場にいる伊吹に伝達し、サイフォンで珈琲をおとしている隆人の隣に並んだ時に、カウンター席に座る朔の口から飛び出した単語だった。
「そう、パーティ。手伝ってもらえないかな」
 同じような内容を朔は繰り返す。
 すっかり常連と化している朔は、白露庵にいると締まりのない面構えになりがちだった。今も緩んだまま、妹を見る。そこに答えを捜すべく、柚乃がじっと朔の顔を見ると、さらにその締まりのなさは増長した。
 唖津曰く、会社の人間には見せない方がいいよ。威厳なくなるから。だ。
「それって、前と同じような感じの?」
 ひらめいたことで柚乃は顔色を明るくした。
「前?……ああ、そうだな。そんな感じ」
 若干しどろもどろになっている兄に気づかず、答えが当たっていたことに柚乃は喜ぶ。
 以前、汐見の会社主催のパーティ会場で、ウエイトレスとしてアルバイトをしたことがあった。他の単発バイトよりも収入がよく、接客慣れしている柚乃には比較的遣り易い仕事だった。
「うん、いいよ」
 基本、人を疑うことをしない柚乃だが、それが兄相手だと剥き出しの手放しになる。
「バイト代はずむから」
「変な気遣いしなくていいってば。そこはお兄ちゃんが気にするとこじゃないし。ちゃんともらえるなら問題ないよ」
「お金をすごく大事にするのに、そーゆうのは辞退するのよねー。欲があるんだかないんだが、判んない」
 調理場から出てきた伊吹が自然と会話に滑り込んでくる。珈琲を淹れ終え唖津に託した隆人も頷いた。
「もらえるもんはもらっときゃいいだろうが。だいたい、こーゆう単発なら構わねぇけど、他のまで続けとく必要ないだろ」
 白露庵を出て行く必要がなくなったというのに、柚乃は相変わらずアルバイトの掛け持ちをやめていなかった。
 これには伊吹が同意した。「うちの給金だけじゃ、やっぱり足りない?」
「とんでもないですっ」
 柚乃は慌てて首を振る。
「住まわせてもらってるのに、本当はお給料だって要らないくらいなんです。お金は何かと必要じゃないですか。貯めておくにこしたことはないかと」
 言ってるうちに自分が守銭奴に思えてきて、苦い心地になる。言葉は尻すぼみになった。
 伊吹は大きく膨らんだおなかを庇いながら、カウンター内に置いてある椅子に腰掛けた。柚乃が落ち込んだのを判っているのか判然としないが、明るいトーンを放つ。
「準備されてんじゃないかって、隆人が不安がってるのよ」
「準備、ですか?」
「出ていっちゃうんじゃないか、ってね」
 茶目っ気たっぷりに言う。伊吹に背を向けていた隆人は、わざわざ振り返って諌める視線を投げ付けた。
「そうなったら、俺んとこに来ればいい」
 舌を出す妻と余計なことばっか勝手に言うなと注意する夫を放置して、朔は颯爽と割り込んだ。
「無理だよ、お兄ちゃん。畏れ多くて行けない。汐見家って豪邸なんだもん。落ち着かないよ」
 妹を紹介する、という名目で家に招待されたことがあった。汐見の両親には気に入ってもらえたようで、以来何度も招待を受けている。有り難いことなのだけれど、邸宅はあまりにも広すぎて何度お邪魔しても気後れする。
「あのな、ゆん。そのことなんだけど」
 色を正して対峙されると向けられた方としても思わず身構えてしまう。朔が口を開こうとして、今度は隆人が遮りに入った。
「つか、行かせねーし」
「耳ざといですね、マスター」
 大人げなくむっと眉根を寄せ、男達の間に火花が散るも、肝心の柚乃は客に呼ばれてさっさと離れていった。伊吹だけが揶揄の種が増えたと内心でほくそ笑む。柚乃が戻ってきて、注文内容を聞き終えた伊吹がまた調理場へと逆戻りしたちょうど、軽やかな音が鳴った。入口につけてある鈴が来客を知らせた音だ。
「いらっしゃいませー」
 柚乃の元気よい声に、来訪者は入ってこようとせず、戸口に留まっていた。上半身だけ店内に突っ込んでいる。入りたくても入れない、といった風情だ。すみません、と呼ばれ、近づく。客の足許に目がいき、入ってこられなかった理由を納得する。
 ちょこんと座った犬と目が合う。座っていても頭の位置は飼い主の太ももあたりまである大型犬だった。
 進みかけていた足が、思わず止まる。
「犬を繋ぐ場所って、ありますか」
 そんな柚乃の微妙な所作には気づかなかったらしい飼い主は問い掛けるも、それ以上近づくことができなかった。かといって、今の位置関係では柚乃が接客するのが当然で。
 散歩の途中でこのように立ち寄ってくれる客は結構いる。なので、専用のスペースを設けてはいた。店内から見える位置ではあるが、最初は案内しないと判りずらい。
「――あの…?」
 訝しげな客の声に我に返る。
「…っは、はいっ。あります。案内しますね」
 踏み出そうとして、隆人に名前を呼ばれた。飲み物を用意する手を止めず、顔だけを柚乃に向けている。
「柚乃はいい」視線は外さず声を張る。「――唖津!」ホールで接客に出ている唖津を呼んだ。
 ランチ時間帯に訪れていた女性客のテーブルに、なにかと唖津は掴まりがちだった。今もなかなか離してもらえなかったところに思わぬ助け船が飛んできて、方向転換した顔に露骨に安堵が窺えた。
「なんですか?」
「油売ってんじゃねーよ。お客様をドッグスペースに案内してくれ」
 言い掛かりだ、と唖津は不平を洩らす。客相手に邪険な態度がとれない唖津に対して、遠慮なく捕捉していたのは女性グループの方だった。可愛い、などと聞こえていたので、どうやらお気に入りになっているようだった。
 そういえば最近、女性客が増えたな、と思う。唖津効果なのだろうか。
「ドッグスペース?」
 唖津は鸚鵡返しに問い返す。
「いいですよ、隆人さん。あたし行きますから」
 柚乃はすかさず答える。
 これまで機会がなく、唖津はその存在を知らずにきていた。それを知っている柚乃は自ら行こうと動くも、またもや隆人に呼び止められる。むー、と口を尖らせる柚乃に頓着せず、隆人は唖津に指示を出した。
「いーから、唖津が行けっての。出て左手にある。行きゃあ判る」
 横柄な物言いの上にしっしと払う仕草までつけた。しぶしぶ指示に従う唖津を見送ってから不満全開で隆人に向き直った。
「あーゆう場合はあたしが行くのが普通です」
 棘のある口調にも迫力が欠けている所為か、隆人は全く意に介していない。出来上がったオーダー品を柚乃のトレイに乗せ、三番テーブルな、と言う。
 運び終え戻ってきた柚乃はすぐさま不満げな表情に逆戻りする。
「無理すんな」
「でもっ」
「構いすぎてると嫌われるわよ?過保護にもほどがあるって」
 調理場から顔だけを覗かせ、一言からかうと伊吹は引っ込んでいった。地獄耳め、と夫は悪態を吐く。
 唖津に先導され店内に入ってきた客を、柚乃は窓側の、ドッグスペースが見える席に案内した。
「わんちゃんにお水だしてもいいですか」
 メニューを受け取りながら飼い主は「お願いします」と笑顔を見せた。
「かしこまりました。では、注文が決まりましたら、お呼び下さい」
 一礼して席から離れる。
 大型犬って大人しいって聞くし、飼い主さんは物腰柔らかそうだから、きっと大丈夫。半ば言い聞かせるように胸の内で唱える。犬専用にと用意してある器に水を満たし、調理場から出たところで、横から器を取り上げられた。
「唖津くんっ?」
「俺、持ってくよ」
 返事も待たずに片目をつぶって、あれよという間に行ってしまった。


[短編掲載中]