唖津を構いたがっていたグループも犬の飼い主も帰り、粗方の客がはけた頃、ずっと留めておいた疑問を朔は柚乃にぶつけた。
「犬嫌いなのか?小さい頃は平気だったよな」
「あー、うん…。施設にいた時なんだけどね、追い掛けられたことがあって。それ以来ちょっと苦手」
「怪我はなかったのか!?」
 喰い付いたのは朔と唖津だ。若干勢いに圧されつつも「友達が助けてくれたから」と返す。
「初恋の相手、カイリくんだっけ」
 わざとらしい伊吹の揶揄口調に、隆人は面白くなさそうだ。律儀に柚乃が赤面などしてしまったものだから、朔も唖津もむっとする。
「またそーゆうことばっかり言うんですから、伊吹さんは。カイリはそーゆうのじゃないんですってば」
「むきになるのが怪しいのよねぇ」
 伊吹はまだまだ続けようとする。柚乃はますます顔を赤らめた。
「根拠のないこと言わないで下さいっ」
「根拠ならあるわよー?柚乃ちゃんが下の名前で呼び捨てにする男の子はカイリくんだけでしょ」
 ね、と首を傾げる伊吹は少女のように笑う。
「ちがっ…だ、だってそれは…っ」
 伊吹相手に口で勝てる気が全くしない。かといって、己を注視する数名の視線に囲まれていると思考が変な方向を向いて、吟味する間もなく口にしていた。
「そっ…それに、あの頃のあたしに、そんな余裕はなかったんですっ」
「なにかあったのか」
 ひどく心配げに、朔は真剣そのものだ。
 朔が施設を出てからのことは、こうして逢うようになってから話をするようになっている。それでも流れた年月の総てを把握できるわけではない。
「じゃなくて。お兄ちゃんが施設出てすぐの頃だったの。すごく寂しかったから、」
「熱烈ブラコン発言ね」
 伊吹に指摘され、初めて気づく。先ほどとは比べものにならないほどに顔で熱を弾けさせた。
「あああああっっ!ご、ごめんね!?お兄ちゃんっ!いいい今は、全っ然問題ないからっ。ほんと、小さい時のことでっ」
 あたふたしているのは柚乃だけで。それぞれがぞれぞれの感情を表面化させていた。まだまだ熱を発している頬を手で仰ぐ柚乃を見遣りながら、朔は静かに口を開いた。
「嘉瀬さん、やっぱ柚乃引き取ってもいいですか」
 朔の笑顔には隠しきれない悦喜と優越感が滲んでいる。
「一緒に暮らさないか、ゆん。実はさ、考えてたんだよね。家を出ようかなって。ゆんの学校の近くにでも引っ越してって」
 さっき言いかけていたのはこのことか、と誰もが思う。
「賛成!だったら兄さん。俺の部屋も頼むよ。学校から近いのって魅力」
 何故か挙手して唖津は声高に言う。柚乃は困惑気味に黙った。
「――嫌か?」
「ううん、嫌とかじゃないんだ。勿論ね、お兄ちゃんと暮らしたいよ。でもさ、そんなの何年も続かないじゃない」
「どうしてそう思うんだ」
「だって、いずれお嫁さんもらうでしょ?そしたらまた住むとこ捜さなきゃいけないし」
「そんなこと考えなくていいんだ」
 考え込む風にして柚乃は黙る。不安げに名前を呼ばれ、曖昧に笑んだ。
「うん、――あとね、ここにいたいのも、あるの。居場所を作ってくれた二人と一緒にいたい。それに、楽しみなんだよね」
「楽しみ?」
「弟か妹が産まれるのが」伊吹のおなかを見る。
 和やか雰囲気が流れた。が、唐突に柚乃が「あ!」叫んで空気を裂く。集う者達は一様にきょとんとした。
「ご、ごめんなさいっ!あたし勝手に兄弟できるみたいな言い方しちゃって」
「謝る必要ないわよー?見て、隆人泣きそう」
 伊吹は楽しそうだ。
「誰が泣くか。だいたいだ、柚乃は嫁に行くまでうちから出さねーよ」
「あれ?」伊吹はわざとらしく小首を傾げた。「嫁にはやらん、って言ってなかった?」
「そう。だから柚乃は一生この家に住む」
 いつ決まったんだろう、と柚乃も小首を傾げる。
 はい、とまたもや挙手をしたのは唖津だ。
「隆人さん、俺はっ?俺、立候補したいんだけど」
「却下」隆人は端的に切り捨てる。
「え?兄さん!援護してよっ。俺ならいい、って言ってたよねっ?」
「考えるって言っただけだ」朔も負けず劣らず端的に吐いた。
「そんなぁ」唖津はしゅんと肩を落として、
「もてもてね、柚乃ちゃん」伊吹はまるで他人事のように言う。一人楽しそうに。
 毎度のパターンとなっている流れの中で、あまり真剣に取り合わないという選択肢を最近の柚乃は覚えていた。
「真木瀬さんの真似してるんですよね」
 男共はひくりと凝固する。柚乃は構わず続けた。
「玩具の取り合いしてるようなもんじゃないですか。負けず嫌いが集まっちゃって引くに引けなくなってるだけといいますか」
「珍しくドライだ」やはり伊吹だけは楽しそうだった。
「あ!」
 またもや柚乃が声を上げた。今度は何だ、と一斉に視線が集中する。
「大変っ、もうこんな時間!真木瀬さんにランチ届けないとっ」
 毎回の如く「昼休みの範囲内で」と曖昧な時間指定を受けていたのだが、これまでと比べても大幅にオーバーしていた。ばたばたと調理場に駆け込み、用意していたランチボックスを掴むとそのまま出口へと急いだ。
「ゆん、待って!俺も出る」
 朔は慌てて財布からお金を出しカウンターに置くと、妹を追って店をあとにした。


[短編掲載中]