少々お待ち下さい、と丁寧に応対され、「お願いします」と返して柚乃は受付から少し距離をとった。
 三階分はありそうな吹き抜けのエントランスは明るく清潔感があった。メイン通りに面している部分は天井まで高く硝子張りとなっており、陽の光を存分に取り入れている。真木瀬が勤めるオフィスの入ったビルの一階に柚乃はいた。
 最初の頃こそビルには踏み入らずに近くから電話をしていたのだが、一度真木瀬が降りてくるまでに時間が掛かったことがあり、それ以降はこうしてビル内で待つスタイルが通常となった。エントランスホールには簡易的に接客ができるようテーブルセットか何組が置かれていて、今はそこに朔が座っている。
 受付には常に二人が就いているのが慣例で、その二人が顔を寄せ合い、何かをささめき合っていた。部外者が傍にいる時にそうしているのを見たことがなかったので、何となく気になり、見遣る。二人の視線は座っている朔にあった。褒め言葉がかすかに耳に入り、自慢げな心地になる。
 真木瀬のランチ依頼率はなかなかの頻度の為、柚乃は受付嬢とはすっかり顔馴染みになっている。とはいえ、雑談をするほどに仲良くはない。相手は勤務中でもあるから、という理由もある。だから、控えめに声を掛けられて、最初は自分に向けられたものだと気づかなかった。
「真木瀬さんとは、どういった関係ですか」
 てっきり朔のことを問われるかと推測していたので、虚を衝かれた。故に、変な声の高さで、え、と出てしまった。遅れて問われた内容の回答を紡ぐ。
「あたし、この近くの喫茶店で働いてます。真木瀬さんは常連さんなんです。あ、もし良かったら今度ランチでも来て下さい。うちのは美味しいですよ」
 自分は作らないから、とは飲み込んでおく。相変わらず真木瀬のランチだけは柚乃が調理しているけれど、なかなか上達が見えない。才能がないのだろうか、と結構へこむことも多い。
 あまり、というか、全く深く考えることなく質問の回答を返して、受付嬢が喜色を表したことに疑問符を浮かべる。そのちょうど、真木瀬が登場し、話は絶ち切れとなった。
「腹減ったぁ」
 真木瀬はお腹のあたりをさすりつつ近づいてくる。
「すみません。遅くなりました」
 柚乃も近づいていきながらランチボックスを胸の高さまで掲げた。
「いーよ、いーよ。ちょうど区切りがついたとこだったし。いいタイミングでした。――って、あれ?こぶつき?」
 受け取りながら何気に流した視線の先にいた朔に辿り着いたらしい。
「使い方間違ってませんか、それ」柚乃は苦笑する。
「細かいことは気にしない気にしない」
 真木瀬はからから笑う。常と変らぬ態度を努めていたが、忙しさの片鱗が見え隠れしていたので、早々にビルから退散した。

 白露庵へ帰る道すがら、公園の中を並んで歩く。
 遊具のある区画を通りすぎながら、内心で笑う。懐かしいとさえ感じる余裕があるのは、今が満ち足りているおかげだろうか。
「――ゆん?」
 無意識のうちにブランコを見つめていたらしい。意識を戻し、隣を歩く兄を見上げる。若干訝しげな表情に誤魔化し笑いを返した。
「なんでもない。ちょっと思い出してただけ」
 あそこに座って求人雑誌と睨めっこしていた自分はもういない。
 もっとずっと昔の頃を思うと、今でも後悔は押し寄せるけれど、過去に囚われてばかりでは勿体無い。大事にすべきは、今ある時間とこれからだ。
「お兄ちゃん…?」
 今度は朔が意識ここにあらず状態になっているのに気づき、顔を覗き込む。
「……この公園だったよなぁ、って思い出してた」朔は苦く笑う。
 真木瀬が迎えにきてくれて、朔と鉢合わせした時のことだ、と思い至る。ひどいことを言って、頑なに拒絶した。ひどく申し訳ない気持ちがせり上がる。
 そんな気持ちを先読みしてか、朔は表情を一変させると、ぽむと頭の上に手を乗せた。懐かしい感触に、思わず目の奥が熱くなる。
「謝るのは無しな。終わったことだ。今、こうしてられるのが総てだ。だろ?」
「…うん」
 ありがとう、と心の中だけで呟く。あまり引き摺られるのを兄は好まない。
「彼は案外モテるんだな」
「彼?――真木瀬さん?」
「鋭いな、と褒めたい反面、直結連想で思い浮かばれんのも面白くないもんだな」
「なにそれ」
 面白くない、という表現が隆人に似たものがあって、可笑しい。
 くすくす笑いつつ「真木瀬さんがどうかした?」と促す。
「受付にいた子、彼を狙ってたよな」
「え、そうだった?」
 きょとんとして思い出そうとする。兄は噴き出して「さっきの鋭さはまぐれか」と笑った。
 むー、とむくれて意地でも欠片を見つけてやろうとするのに巧くいかない。ごめんごめん、と軽やかに笑う兄を見ていたら、まぁいいか、という気になってくるから不思議だ。
「見た目はいい男だもんね、真木瀬さん」
「見た目だけか?」
「話聞いてるとね、案外冷たいところもあるみたい。好きではないタイプには超ドライ、みたいな感じかな」
 好き嫌いがはっきりしているタイプだと、これまでの会話の中から真木瀬の性格を分析していた。
「そーゆう面では唖津くんはオールマイティだよね。人当たりがいいっていうか。お店では特にお姉さん世代にもててるみたい」
「気になる?」
 きょとん、と兄を見る。
「……いや。判んないなら、いい」
 朔は何かを思い浮かべる顔つきになってから苦笑を洩らした。
「ゆん、これから予定は?」
「…?白露庵に戻るけど」
 ふうん、と返して、朔はおもむろに携帯電話を取り出した。数回の呼び出し音が漏れ聞こえ、相手が出る。
「――あ、伊吹さん?良かった。汐見です。ゆん借りてきます。マスターには適当に…はい、…では」
 用件が済むと早々に切り、「というわけだから、ちょっと付き合ってほしいとこあるんだけど」と言いながら、携帯電話の電源自体をオフにした。
「お兄ちゃんっ?」
「これで電話に出なくていい」
 つまり隆人から追い掛け電話があると踏んでのことだろう。歳に不相応な悪戯っ子の笑みを浮かべた。
「たまにはいいだろ?」
 白露庵を出る時には客は殆ど残っていなかったし、あと一時間ほどで喫茶店側の営業は終了時刻を迎える。伊吹の了解が得られているなら問題ないか、と判断はできるものの、別のところで不安要素が浮んでしまった。
「隆人さんにも了承とった方がいいんじゃないの?」
 電話だけでは少々一方的すぎるきらいがある。
「白露庵立ち入り禁止になるかもな」
 柚乃の心配を余所に、朔は全く意に介していない様子で。
「ゆん、携帯持ってきてる?」
「――あ、家に置きっぱなし…」
 普段配達の時には必ず持ち歩くようにしていた。ちょっとの距離なので、と置いていくことが多かったのだが、隆人に却下されたからだ。携帯電話を持って出ることで隆人が安心してくれるというのならそれでいい、と柚乃は言いつけを守ってきたのだが、さっきは慌てて飛び出してきた為、ランチ以外のものを何も持っていない。
「上々。行こう」
 柚乃の手を取り先導を始める。臆さない朔の強引さがくすぐったい。兄妹で手を繋ぐ歳でもないのに、恥ずかしがるどころか嬉しそうで。そんな子供っぽい一面を見られることに、幸せを感じる。
 兄が諦めず信じてくれたから今がある。大切にしたいと願う。絶対に失いたくない。


[短編掲載中]