引かれるままに街へと繰り出したものの、柚乃は白露庵の勤務スタイルで、エプロンこそ外していたが、ラフな普段着の朔とではアンバランスだった。
 ショーウインドウの硝子に映った二人の姿でそれを認識させられ、兄が恥ずかしい思いをするのでは、と思うと、急に居た堪れなくなる。俯いたその時、朔は一軒のショップに入った。最初から目的と定めていたかのような迷いのない足取りだった。
 店外の喧騒から切り離されたそこは、優雅な空間を造り出していた。広々としたスペースに、ゆとりを惜しげもなく施した陳列仕様。一度だって踏み入ったことのない構えの洋服店で、一気に気後れする。
「いらっしゃいませ、汐見様」
 店員は店構え同様、優雅に礼をとった。朔は挨拶を返し、店内を見て廻る。小声で柚乃が呼んでも聞こえていないのか――聞こえないふりなのか、選ぶのに余念がない。
 一着のワンピースに目を留め、手に取り、眺め、柚乃の前にあてる。ふむ、と数瞬見比べたかと思うと、満足げに綻んだ。
「これにしよう」
「え…?」
 肩に手を廻され、戸惑っているうちに店員の方へと押し出される。手にしていたワンピースと一緒に柚乃は託される。
「あと、頼みます」
「かしこまりました」
 店員は存知顔で、一礼すると柚乃を促す。逆らえない圧がどことなくあって、答えを求めるべく上半身をよじって兄を振り返った。兄は満面の笑みで手を振るだけ。
 あれよという間に試着室に押し込まれ、二人の店員までくっついて入室する。
「えと、あの…?」
 試着に使用するには余りある、小部屋ほどの広さだった。背丈よりも大きな鏡が三面にそびえ、床中央にはふかふかの絨毯が敷かれていた。
 シンプルにしているけれど、柚乃を圧倒するには充分な造り。戸惑っている柚乃を余所に、店員達は自分の仕事をまっとうすべく動き出した。

 単なる試着と思うなかれ。
 若干やつれた面持ちになっているのは、単純に気持ちが疲弊している所為で。
 試着室から柚乃が解放されたのは、入室してから軽く一時間は超過した頃だった。店内に設けられたソファに座り、溶け込むように優美な所作で兄はくつろいでいた。その違和感のなさに、育ちの違い、という言葉が浮ぶ。微かに香る珈琲の匂いは、朔が手にしているカップからだった。
 人の気配が動いて、柚乃の試着が終了したことを察知した朔が、妹の姿を見つけ破顔する。
「ゆんっ!よく似合ってる!可愛いな」
 子供みたいに声を張る。率直に感想を述べられて、照れ入るほかに態度の示し方が判らなかった。朔は駆け寄るが如くスピードで間近に迫ると、全身をあらため、満足げに頷く。
 朔が選んだワンピースに合わせて全身コーディネイトが完成していた。この手の店ならば一式揃えで整えることもあるのかもしれない、と想像はできるのだが、ひとつ納得のいかない部分があった。着せ替え人形よろしく今の格好をさせられる前、二人の店員に採寸されたのだ。
 一緒になって入った試着室から出ようとしないので問い掛けると「まずはこちらを」と出されたのが、薄手の綿地で作られたワンピースのようなものだった。ノースリーブで膝丈のそれは飾り気の一切ないシンプルな形で。
 訝しく思いつつも逆らえない空気に大人しく従った途端、メジャーがお目見えした。たじろいでいる間に採寸は終了し、本来の着替えという流れになったのだ。
 試着に採寸が必要だなんて、聞いたことがない。しかも、着替える前に。
 悶々と納得のいかない答えを考え込んでいる柚乃の表情は浮かない。朔とのテンションの落差は歴然だった。
「気に入らないか?」
 朔は不安げに口を開く。
「ううん、すごく可愛い」
 こーゆうの着てみたかったの、と笑顔を向けると、あからさまにほっとした顔つきになった。
「こっち着ていきます」
 店員に向け言う。かしこまりました、と腕に抱えていた柚乃の服を奥へ運ぼうと動く。
「え、ちょ…ちょっと待って下さい」
「それ着て行こう。ランチでもどうだ。忙しくて食べてないだろ」
 構わずに、と店員に目配せし、止めようとする妹を止める。
「あたしっ…こんな高いの払えないよ。財布だって持ってきてないし」
 試着室で服を手渡される直前に値札が外された。不審に思いこっそり盗み見たら、普段買うよりもゼロが一つも二つも多かった。しかもトータルコーディネイトで靴や鞄まで整えられている。一体いくらになるか、想像するだけでも立ちくらみがしそうだ。
「もう済ませた」
「え?」
「もらってやって」
「えぇっ!?もっ、もらえないよっ」
 店員が朔にペーパーバックを渡す。おそらくその中に柚乃が着てきた服が入っている。
「俺の自己満足なんだ。付き合ってよ」
 出口まで促して歩き、ドアを開けて柚乃を先に出す。見送りに出ていた店員達に会釈を返し、朔は再び柚乃の手をとる。戸惑う妹に無邪気な笑顔を見せた。
「――お兄ちゃん、これがしたかったの?」
「そう。お兄ちゃん、をしたいんだよ」
 頑なに拒絶するのも気が引ける。かといって、高価なものを受け取るのも気が引けた。
「難しく考えんな」
 嬉しそうにしている。兄の嬉しそうな顔を見られるのは、嬉しい。
 でも、と難色を拭えない妹に、爽やかな笑みが向けられた。
「空白を、埋めたいんだ」
 きゅ、と喉の奥が詰まる。――お兄ちゃん、ずるい。
 それを言われたら他に返すべき言葉は失われる。
「な?」
 この笑顔に返せる言葉はひとつしかない。
「……うん、ありがと。お兄ちゃん」


[短編掲載中]