リビングは間接照明のみの柔和な灯りで満たされていた。
 キッチンに届いたリビングからの人の気配に、飲みかけのコップを手にしたまま唖津はそちらへ足を向ける。
 ソファに身を預けている朔は、見るともなしに宙を見ていた。その横顔は実に幸せそうで。音量を落として点いているテレビに意識はないようだった。ただぼーっとしているだけ、というよりは、思い出している中身に浸っているのだと推察する。
「兄さん」
 呼び掛けに振り返る兄の締まりない顔は、白露庵にいる時と同等。ほんと、会社の人間が見たら目を剥きそうだ。想像したら、笑える。
 座るか、と目配せされ、兄が座るソファに背を預ける格好で床に直接座った。近くにあったリモコンで順繰りに番組を切り替える。
「上機嫌だね、兄さん」
「そうか?」という声も弾んでいる。
「思い出し笑いする人って、むっつりすけべって言うよね」
 からかうと、「あほか」と呆れられた。
 興味を誘う番組が見つからず、適当なところで放置する。どうせ兄も見てはいなかったのだから構わないだろう。
「機嫌よさそうに見えるか」
「明らかにね。まるで子煩悩で心配性の父親みたいだ」
「どんな喩えだよ」くくっ、と笑う。
 兄が幸せそうでいてくれるのは純粋に嬉しい。喜ばしいと本心から言える。
 彼の心の中で、ずっと中心にいた人物は、再び逢うことが叶った今でも、中心にあることは変らない。兄がどれだけの労力を注ぎ込んでいたかを知っているからこそ、祝福できる。
「兄さんさ、ここ出てくの?」
 呟く音量になってしまった。兄が望むなら、応援したい気持ちはある。仕方ない、とも思う。
 朔がこの家に引き取られたばかりの頃からみれば、格段に家の中の空気――とりわけ母と兄の間にあるしこりのようなものは緩和されている。少しずつではあるが、母も朔という存在を認めてきている。それでも朔にとってここは、自分の居場所とは思えないということだろうか、と考えてしまう。
「居づらい?」
 口にして、ずっとどこかで問うてみたかったことだったのだと、気づいた。
 ソファに座る兄の気配を背中に感じる。沈黙は何を意味するのか。はっとして、慌てて上半身をよじって兄を見上げた。
「ご、ごめん、兄さん。今の無し!」
 あまりにも無神経な質問だ。朔は、ふ、と息を洩らし微笑んだ。
「ゆんには振られてしまったからなぁ」軽く笑う。「別にな、ここが嫌で出て行こうとしてるんじゃないんだ。実際ゆんに話してみて、勿論その気が消えたわけではないんだけど、断ってもらえて良かったかな、とも思ってる」
「良かった?」
「ゆんにはゆんの居場所があって、俺にもそれはある。なにも一緒に暮らさなきゃ駄目ってことはないんだろうな、ってさ。今のゆんがあるのは、それまでのゆんを、見守って支えてくれた人達がいるからなんだし、」
「それらを大切にしたいってゆー柚乃ちゃんの気持ちを尊重したい?」
「だな。…そりゃぁな、空いてしまった時間を取り戻したいって焦りがないとは言わないけど…」照れ入るように笑う。
 たぶん、一緒に暮らしたいのも願望としては根強いものなのだ。
「兄さんは葛藤しているわけだ」
「悩みは尽きないよ」
「なんでもかんでも我慢できるのが大人だっていうなら、俺は一生大人になれなくてもいーや」
 あれもこれも欲望を強調して押し付けてしまっては、大切にしたいと願う人を潰してしまう。潰したくはないけれど、こうありたいという願いは果てなくて。どこで折り合いをつけるかは、相手を想い遣ることと似ているのかもしれない。
「難しいところだな」
 朔は深く息を吐いてソファに身を沈ませた。
「もしも部屋を借りるんなら、広いとこにしてよ」
 兄の気分が沈んでしまわぬよう、明るい声を出した。この家にいるのが嫌で出ることを考えていたわけじゃないと判って安堵していた。
「転がり込む気か」
「もちろん。絶対楽しいって」
「どっからくるんだ、その自信は」
 呆れた風を装っていたが、それもありかもな、と言い加える。
「可愛かったよね、柚乃ちゃん。あれって兄さんが選んだの?」
 真木瀬にランチを届けに行って、すっかり変身した柚乃が帰ってきたのは数時間後のことだった。朔に手を引かれ、朔の背に隠れるように店内に入ってきた彼女はひどく恥ずかしげで、殊更可愛さが増していた。
「他にも着せてみたいのはあったんだけどな、あれが一番似合いそうだと思って」
「うん。似合ってた。ちょっと妬いちゃうくらいに」
 わざとらしく唇を尖らす。
「妬く?」
「あれってあそこの服でしょ?」
 汐見家が懇意にしているブランドの店名を挙げた。
「よく判るな」朔は感嘆する。「で、妬くって?」
「だって、今の俺じゃ、なぁんにも買ってあげられないじゃない。経済力なさすぎ」
「そんなことにへこんでどうする。だったら他でバイトすればいいんじゃないのか」
「ごもっともな意見だね」
 白露庵では相変わらず無賃で労働力を提供している。賃金では得られないものを得られる大切な時間なので、そのスタイルに不満は無いし、変える気もなかった。
「あそこは、あれでいいんだ」
 弟からの返答に、兄は満足そうに笑った。まるでそう答えると判っていたよ、とでも言いたげな笑顔だ。
「それよりもさ、例の件は話したの。店に連れて行ったのは服を買う為だけじゃないんでしょ」
「……まだ」
 ぽつり、と苦く言う。
「詳細話さないわけ」
 兄の性分ならばとっくに説明して依頼しているものと思っていた。兄を振り仰ぐ。朔は苦笑を浮べた。
「話さなきゃとは思ってるんだけどな。事前に話すと嫌がる可能性高いだろ」
「あー、だね」
「折りをみて話すから、唖津は喋るなよ」
「俺、そこまでお人好しじゃないよ」軽やかに笑い、次には表情を引き締めた。「兄さんなら大丈夫だろうけど、敢えて言っていい?柚乃ちゃんを困らせないでよね」
「――久々に兄弟喧嘩でもしたいか」
「返答次第では」
 挑む目線を作り、投げ付けた。朔は口端を緩める。
 喧嘩らしい喧嘩など、したことがなかった。歳が離れていた所為もあるが、一番の理由として、朔が汐見に遠慮しているのだと、唖津は知っていた。
「いい歳して喧嘩とか、したくねーよ」弟の頭をぐしゃぐしゃに掻き廻す。「唖津の方こそ、当日は巧くやれよな」
「へ?なにを?」
 乱された髪を直しつつ、きょとんと兄を見上げた。
「七海ちゃん」
「……あー…、だね…」
 今度は唖津が苦く言う。辟易と息を吐いた。
「できれば顔合わせたくないけど」
「断った手前、か?」
「それもありき。それ以上に、学校で広まってるんだよね。噂の域は出てないんだけど」
「噂でもないだろ。事実なんだから」
「今は違うんだから、噂なんだよ。過去は無関係、ってことで」
 屁理屈を捏ねる子供みたいにむきになる。
「嫌なら参加しなければいいんだよ。もともと唖津は呼ばれてないんだからな」
「見張ってないとさ、心配なんだよ」
「誰が?」
「あの、おてんば娘が」
 ああ、と妙に納得のいった声で朔は頷いた。


[短編掲載中]