とあるホテルの一室で、柚乃は答えの出ない悶々とした思考に、またもや囚われていた。さきほどから柚乃の身支度を整えてくれている女性達は、柚乃の質問には一切答えてくれず、作業の指示のみ飛ばし合っている。
 今日は、朔に依頼されたアルバイトの日だった。
 ホテルに到着したらフロントで名前を出せば後の指示がもらえると聞いていて、ベルボーイに案内されるのを訝しがりながらもついて行った先は、客室だった。待ち構えていた数名に取り囲まれ、メイクやらヘアーセットやら着せ替えに至るまで施されている。なにがなんだか判らない。
 考えたところで答えが明確になるわけじゃないと判っていても、考えずにはいられなかった。ここを出たら、その答えを知っているだろう人物を真っ先に捜そうと決めた矢先、ノックの音がした。中からの入室許可を確認した上で入ってきたのは、正装した朔。
 一瞬見惚れ、次に思ったままをぽつりと口にしていた。
「お兄ちゃん…格好いい」
 スーツ姿ともまた違う、紳士然とした外貌。ブラコン発言だと気づき、羞恥心が込み上げた。伊吹がいたら間違いなくからかわれているところだ。
「…じゃ、じゃなくてっ」取り繕うように慌てて続ける。「おかしいの。あたしバイトできたのに、こんな格好させられてっ…」
 ふんわりとした女の子らしいデザインのドレスを着せられていた。まるで柚乃の為にあつらえたかのようにサイズがぴったりで。メイクも髪もそれに合わせて、柔らかいイメージに仕上がっていた。こんな格好ではウエイトレスは務められない。
 朔は、数歩の距離まで近づいて、ほわっと笑った。
「似合ってる。可愛いよ、ゆん」
 兄の笑顔がとても満足そうで、妙に落ち着いた態度に、柚乃もつられそうになる。
 一流ホテルの一室で、パーティドレスを着用した自分と正装している兄。非日常に置かれて、感覚が麻痺してしまいそうになる。
「行こうか」
 すっと差し出された手に自身のそれを乗せる。朔の長い指が、やんわりと柚乃の手を握った。誘導されるままにホテル内を進んでいく。
「どうなってるの、これ」
 歩幅を合わせてくれる兄を見上げる。さっきまであった柔らかい空気は一気に沈んだものに変わり、訊いてはいけないことを訊ねてしまったかと不安になる。
「実はな、お願いがあるんだ」朔の声は硬い。
「お願い?」
「そのドレスを着ている間、ゆんは黙って俺の隣にいてくれないだろうか。対話は総て俺がするから、ただいてくれるだけでいいんだ」
 叱られた子供のような、弱々しい語調だった。不明瞭極まりない依頼内容だと自覚しているのだろうか、と思う。
「パーティ会場にあたしも行くの?」
「……そう」
「お兄ちゃんと一緒にいるだけ?」
「……うん」
「なにも話さなくていいのね?」
「……できれば、ひたすら沈黙してくれてると、有り難い」
 非常識な依頼内容だ。だが、
「話を合わせて相槌打つに留めておけばいい?」
 朔が言い出したことでなければ、まともに取り合わなかったかもしれない。そして、粗雑な依頼なのだと朔に自覚がなかったとしても、取り合わなかった。
 大切な人がほとほと困っているというのなら、助けたいと思うのが自然の摂理で。
「判った。お兄ちゃんの手助けができるなら」
「ありがとう、ゆん。助かるよ」
 ようやと表情を溶かした。それを見て柚乃も綻んだ。してあげられることがあるという事実に、喜悦が込み上げる。

 ひたすらに、口数少ない人物を演じるということが、結構な労力を費やすのだと知った。現況を、できればこれからの人生で、あってはほしくない状況に認定する。
 朔にエスコートされて会場に入ってから数分も経たない内に、依頼の本意に辿り着いていた。柚乃は自ら率先して話をするタイプの人間ではないけれど、無言を心掛け続けるのはなかなかに骨が折れる。しかも、朔の口から繰り出される捏造ぎりぎりの設定に、異を唱えることなく、それを表面化させずに失礼にあたらないようするのは、生半可な気配りでは遣り過ごせなかった。
 人が周囲にいない隙を見計らって、その都度朔は謝罪を口にし、その都度柚乃は平気だと笑顔を向けていたのだが、それも段々と力が無くなっていった。
「ごめんな。埋め合わせは必ずするから」
「いいよ、平気」
 自分の知らない人達とにこやかに対話をしている兄は、まるで知らない人のようだった。こうして柚乃と二人だけでいる時は、いつもの兄に戻るのだけど。
 それは兄が、自分と離れていた時間に培ったものであり、仕方のないことだと理性では理解していても、湧き起こってしまう寂しさは拭えなかった。
 ――どっちが本当?
 こういう場であるのだから、常よりも更に表面を作っている筈だ。それでも、凛としてこなしていく兄は、紛れもなく汐見家の人間の顔をしていて、それこそが本当の兄であり、柚乃が知る過去の兄――現在も柚乃に対する時の兄こそが、作られているものなのではないか、という気になってくる。
 柚乃を気遣って、芳越朔を演じているのではないか、と。
「――…ん。…ゆん?」
 宙に漂わせていた視線を慌てて兄に戻す。
「疲れたか?ほんと、ごめんな」
 大丈夫、と少し大袈裟なくらい首を振った。己の思考に、苛立ちを覚える。
 なんて我侭…。
 兄と一緒に時間を過ごせるだけでも、少し前の状況からでは考えられなかったというのに。
 自分といる時の、昔と変らない兄こそが本物であってほしいと、願ってしまう。口にしてはいけない。声にしてしまえばきっと、今以上に、芳越朔であろうとするだろう。柚乃を気遣って。
 そう、できるなら、他人にするように、気遣ってほしくない。
 喩え本当の兄が汐見朔であったとしても、気遣われたくないのであれば、柚乃はそれを受け入れるべきなのだ。
 人は変わる生き物だから。朔の境遇であれば尚更で。
 だから、寂しいなんて思っちゃ駄目。それよりも今は、兄の依頼をきちんとこなすことに集中しなければ。雑念を追い払い気持ちを引き締めた時、声を掛けられた。正確には、朔に。


[短編掲載中]