「お久し振りですね」
 近づいてくる女性は、艶めかしい唇に朔の名を乗せた。大人の色香が漂う。完璧なドレスアップに負けることない美麗さを備えている。内にある自信に満ち溢れ、そこにいるだけだというのに圧倒される。親しげに朔を呼ぶ声が、耳に残った。自然、朔の腕に添えていた指先に力が入る。
「お変わりないようですね」動じた様子はなく朔は応じる。「相変わらず、美しくていらっしゃる」
 さらりと返す。爽やかな笑みを浮かべて。受ける側も慣れたものらしく、謙遜なく賛辞を受けた。会場に入ってから何度となく繰り返されたことが、再び起ころうとしている。内心では辟易していたが、一度引き受けたからには遣り通さなければいけない。
 それに、と思う。
 兄の相手に、と選ばれたのが自分で良かった。そんな風に考えてしまうのだから、伊吹にからかわれるのも無理はない。
 妹だということは、ここにいる大多数が知らずにいる。周囲の認識は『汐見朔の大切な人』――その殆どがそれを『朔の恋人』だと勘違いしている。
 世間一般的に婚姻を奨められる年齢に差し掛かっている朔の周りでは、このところその手の話がよく舞い込んでくるらしい。妹の贔屓目を抜かしても、兄は見目惹く容姿だ。女性の方から寄ってくるのは数知れずだよ、とは会場にいた唖津が耳打ちしてきて知った。
 今はまだ考えられない、というのが朔の答えであり、結婚相手は自分で見つけます、と明言していた。汐見の父はそれを尊重し自由にしなさい、と放任なのだが、周囲がそれを認めない。放置したらしただけ、話が持ち上がる。
 会社の重役ともなれば社交界への参会頻度は高く、知り合う数も膨大だった。そんな折に知り合う女性は、様々な角度からアプローチをしてくるらしい。これも唖津から聞いた。唖津の表現を借りれば、朔はそれらを蹴散らす為に柚乃に協力を仰いだ、ということで。
 貴女をパートナーには選ばない、他に決めた人がいるから、と明示するのはこれで何度目だろうか。目の前の女性も、丁寧ながらも頑として斥ける朔を相手に、肩を落とし去っていくのだろう。その背中を見送る度に、双方の気持ちを考えると胸が軋む。
 きっと、外見や汐見の名に引き寄せられたのではない人も中にはいる筈だ。きっと朔も、判っている。
 間近で当たり障りのない会話が繰り広げられる。ちくちくと向けられる棘の視線に素知らぬふりをして、無言を心掛けた。相槌を求められれば曖昧に笑んで、柚乃も当たり障りのない程度に返答をする。朔は巧く誘導して矛先が柚乃にはいかないようにして、誤解を恐れず冷静に、他の女性にも言ったことを繰り返している。
 口で言うだけよりは、隣に対象がいれば説得力も増す。柚乃をその対象に仕立てあげたのは、たぶん苦肉の策だった。
 暖簾に腕押し状態が数分続き、相手が根負けする。幾度となく繰り返された光景が展開され、終幕を迎えた。なんとも言い表し難い気持ちが込み上げ、沈む。
「ゆん、疲れたか」
 ひそめた声が落ちてくる。ふる、と首を振った。
 沈んだ空気を朔がどう解釈したかは容易に想像がついた。疲労感が無いとは言わないが、他の理由の方が割合を大きく占めている。
 冷静に端的に断固として断れる兄は尊敬に値するかもしれない。それが本来の兄であると認めざるを得ないのであれば、やはり知らない人になってしまったみたいで、寂しく思う。
「ちょっと席外してもいい?」
 兄が心配する顔を見たくなかった。この感情は、柚乃の中で消化するしかない。
「大丈夫か?付き添おうか?」
「平気」
 素っ気無い言い方になってしまった。誤魔化すように笑顔を作り、了承を取る前に身を翻した。

 足早に会場をあとにし、広い廊下を進む。自己嫌悪に陥りながら、トイレに逃げ込んだ。パウダールームの空いている鏡へ向かう途中、視界の端に人影が入り、何気なく顔を向けた。スツールに腰掛けている人物は、屈み込んで足元を気にしていた。顔は見えなかったが、着ているドレスの感じから同じ歳の頃かと推察する。続いて足元に目がいき、赤の色に、思わず声をあげてしまった。つと上げられた視線とかち合う。
 端整な顔立ちに強い意志を覗かせる瞳が印象的な、ショートカットのよく似合う少女だった。
「あの、ごめんなさい。その…、靴擦れ、痛そうだなって…」
 目が合ってしまった以上、素知らぬふりはできない。おず、と柚乃は口を開いた。
「おろしたてを履いたら案の定。たまにかしこまった格好をすると駄目ね」
 少女は身を起こし、うんざりと肩を竦めた。かかとに血が滲んでいた。皮が剥けてしまっている。痛感を想像すると自然しかめっ面になった。
「貴女の方が痛そうな顔してる」
 くす、と笑音が漏れる。
 そんなに険しい顔になっていたかと羞恥心が込み上げた。
「あ、あのですねっ、余計なお世話かもしれないですけど、あたし目立たない絆創膏持ち歩いてるんです。部屋に置いてあるので時間があれば手当てしませんか。そのままだと酷くなるだけですし、痕残っちゃいます」
 整った顔立ちのせいか、じっと見つめられると落ち着きを失くしてしまう。ドレスを着こなすだけの品位も感じられて、自分とは違う世界の人なんだろうと思うと、気後れもした。
 柚乃の申し出にきょとんとしている。本当に余計なお世話をでしゃばったと慌て、やっぱりなんでもないと口を開きかけて、破顔され、今度はこちらが凝固する。屈託無い笑顔が歳相応に見えて、少しほっとする。
「せっかくだから、お言葉に甘えちゃおっかな。あたし、七海っていうの。貴女は?」

 ホテルに到着してすぐに通された部屋は、パーティが終わるまでは柚乃ガ自由に使用していいということになっていた。
「うわぁ、素敵。スイートルームじゃない」
 部屋に入るなり七海は感嘆の声をあげた。
「やっぱり、そう思いますか」
 置きっぱなしにしていた鞄をまさぐりながら苦く問い返す。
 ベルボーイに通されてすぐ、柚乃も同じことを思っていた。柚乃の場合、声にして問う前に、待ち構えていたスタッフに引っ張られてしまったのだけど。
「てことは、柚乃ちゃんが部屋をとったわけじゃないんだね」
「とんでもないっ」ぶんぶん首を振る。「あたしにはとてもそんな…」
 一番ランク下の部屋さえ無理だろう。アルバイトの話がなければ近寄ることもないほどの、超がつく一流ホテルだ。
「彼氏?」
 七海はにんまり笑う。美麗な笑みに見惚れてしまいそうになった。
「ちっ…違いますっ」
 顔で熱が上昇する。こんな単語に動揺しない冷静さがほしい、と内心で呆れた。
「いいセンスしてるね、その人。そこかしこに花あるじゃない?あれ、頼まないとないものだもの」
「そ、そうなんですか…?」
 何故そんなことを知っているのだろう、という疑問よりも先に、目線が部屋の中を一周した。白とピンクを基本として、部屋全体をコーディネイトしている。ふんわりと優しい香りが室内を満たしているのは、柚乃が到着した時には焚かれていた香の残り香だ。
「その人、柚乃ちゃんを大切に想ってるんだね」
「そうなんでしょうか…」
 確かに兄は優しい。昔からそうだったけれど、あれは柚乃が本当に小さくて、護ってあげなくてはいけないほどに小さかったからで。
 今でもそのままだというのは、やはり開いた空白の時間の所為と考えるのが妥当だ。結局のところ、気を遣わせてしまってるのだ。
 別世界に連れ出されて、そこに溶け込んで違和感のない兄を見て、距離を感じている。普段の兄は、その距離を感じさせないようにと、気を遣っている。
 油断するとすぐにでも思考が沈む方向へと向かってしまう己の心を叱咤した。
「絆創膏ありました。そこのソファに座ってもらっていいですか」
「いいよ。自分でやるから」
「遠慮しないで下さい。ドレスで見えづらくないですか?」
「う…まぁ、それは確かにそうなんだけど…」
 パウダールームでもふわりとしたスカート部分に邪魔されて悪戦苦闘していたように見受けられた。
「それに、なるべく貼っているのが判らないように貼った方がいいじゃないですか」
「……そうね。ありがとう。やってもらっていい?」
「勿論です」しゃがみ込むと、フロントで借りてきた消毒液をコットンに含ませた。「沁みますけど我慢して下さいね」
 ひと通り消毒を終え、絆創膏を貼り始めようという時、それまで黙っていた七海が口を開いた。
「婚約者って言葉、馴染みある?」


[短編掲載中]