「え?」
 突飛な話題に目を丸くし、作業途中であることも忘れ、まじまじと七海の顔を見上げた。七海はくすりと笑う。
「あたしね、婚約者がいたの」
「そう、なんですか」
 話の真意が見えなくて、曖昧な相槌になってしまった。
 誰かに聞いて欲しいだけなのかな。
 そういう気分は誰にだってある。同じ歳頃の、知らない相手だから都合がいい、ということだってある。
 作業を再開し、目線を合わせずに先を促した。その方が、過去形の言い方をした七海にとって、良い気がしたからだ。
「盛大なパーティが行なわれてるじゃない?」
「え、はい」
 確か今日催されているのは朔が列席しているものだけの筈だった。
「そこにね、元婚約者がきてるわけ」
 未練があるのかな、と思った矢先、元婚約者に逢いたかったんじゃないの、と七海はあっけらかんと言う。深刻さのない口調に拍子抜けした。呆気にとられ見上げた七海の顔は、さばさばしたもの以外は浮んでいない。
「婚約解消自体に不満はないの。むしろ、言い出してくれて喜んだくらい。だってさ、自分の好きな人くらい自由に見つけたいじゃない?この歳から一生のパートナーを一人に決められるなんて、うんざりよ」
 本当にうんざりして言うので、思わず噴き出してしまった。
 見た目を大きく裏切って、ざっくばらんな性格なのかもしれない。黙っていればどこからどう見ても令嬢そのものなのに。
「ちょっと無理言って、参加させてもらっちゃった」
 茶目っ気たっぷりに軽口調。七海の言う『ちょっとの無理』がどのくらいなのかは口調からは測れない。あれだけの規模のパーティに参列を許される身分というのは、どれほどのものなのか。柚乃には想像もつけられなかった。
「どうして、ですか…?」
 たとえ互いに恋愛感情がなかったとしても婚約していた相手ならば、多少なりとも逢うのは気まずいのではないだろうか。一般的な見解として。
「婚約解消の理由って、なんだと思う?」
 問われても皆目見当もつかない。素直に首を傾げた。
「好きな子ができたって、はっきり言われたの」
「えっ?」
 人は見た目だけで判断してはいけない。とは施設にいた頃からよく園長に言い聞かされていたことだった。それにしたって七海ほどの子をふるなどと、普通では考えられない。元婚約者が好きになった相手は、七海をも越える美少女なのだろうか。
 柚乃の驚き方がツボだったのか、七海はころころと笑った。
「もともとね、お互いに親同士の勝手な決事には不満だったの。いつか納得させられるだけの理由突き付けてやろう、って話してたんだ。そしたらさ、好きな子できた、だもん。うちの親にも直接断りにきたりして、本気みたいね」
 まるで、第三者の話を聞かせてるような口振りだった。ここで「未練はないの?」なんて質問をしようものなら笑い飛ばされそうだ。
「それで…参加されたのって…?」
 婚約者に逢いたかったわけでもなく、本来ならば参加予定じゃなかったパーティ会場に来る理由が判らない。
「ああ、そうそう。そうだよね。パーティなんてどうでもよくて。小耳に挟んじゃったの、元婚約者が好きになった子がくるって」
 好奇心には勝てなかったんだー、とからから笑う。あまりの軽さに、世間一般的にはそういうものなのかと、我が社会通念を疑う。
「その子には、逢えたのですか?」
 顔とか名前は知っているのですか、などというのは愚問に思えて、口にできなかった。
「もちろんっ」七海は上機嫌に答える。
 良かったですね、と返すべきか悩んだ時、ノックの音が割り込んだ。
「誰でしょう」呟き、ちょうど七海の手当ても完了する。ヒールを履き易い位置に置き、立ち上がった。
「完了です。少しはマシになったと思うのですが…」
「ありがとう」
「どういたしまして」
 再度ノックがされ、直後柚乃の名を呼ぶ声がした。
「はーい」
 小走りで駆け寄る。扉を隔てている所為でくぐもって聞こえていたが、唖津の声だった。扉を開けると、正装した唖津が立っていた。会場内で何度か言葉は交わしていたが、会場を離れ、こう改まって対面すると何だか恥ずかしい。
「やっぱりここにいた。兄さん抜け出せなくてさ、代わりにきたんだ」
「え、あ、ごめんなさいっ。そんなに時間経って…!?」
「大丈夫だよ。終盤だし、戻ってこなくていいって伝えにきた。俺もここで休んでっていい?」
「はい、勿論です」
 路をあけ、入室を促す。部屋へと進み入る唖津は、いくらも進まないうちに立ち止まった。すぐ後ろに続いていた柚乃は疑問を浮かべて唖津の横に並び、顔を覗き込む。
「唖津くん?」
 苦渋の面、がそこにはあった。その視線が捉える先にいるのは、悠々とソファに座る七海だ。
「ど、どうかしたのですか。具合でも悪いのでは…」おろ、とする柚乃の声と
「七海ちゃんがなんでいるんだよ」憮然とする唖津の声が重なる。
 七海は瞳に興を宿して悠然と微笑んでいる。
「お知り合い、ですか?」
 唖津が答えない代わりに七海が謳うように綴った。
「さっき話した、元婚約者よ。柚乃ちゃん」
 胸の奥が、ちくりと痛む。「?」
 七海の、鈴が鳴るような軽やかさの中に、悪心めいたものは微塵も感じられなかった。単純に面白がっているだけに映る。
 学内で汐見唖津の名はそこそこ知れ渡っていた。そこに付随する噂も鈴生りで。
 唖津という存在が柚乃にとって、擦れ違っても挨拶もすることのない『名前を知っているだけの同級生』だった頃は、どんな噂が耳に入ろうとも気にならなかった。――でも、今は。
 七海の口から転がり出た言葉に反応した己の心が、判らない。
 依然凝固したままの唖津に再び視線を転じる。
「噂、本当だったんですね」
 トーンが沈み気味なことに、更に驚く。
「ほっ…本当だった、けどっ…今は本当に、フリーで…っ」
 しどろもどろな唖津を、どこか傍観する心地で眺めた。
「そうですか」
 他に続ける言葉が見つからず、口を噤む。またノックの音がして、唖津が何かを言う前に柚乃はドアへと向かった。応じると兄の声がして、ほっとする。ドアの向こうには少々の疲弊を頬に乗せた朔が立っていた。
「お疲れさま、お兄ちゃん。終わったの?」
「ああ。――あ、いや」
 柚乃はくすと笑う。「お兄ちゃん、それ、どっち?」
「パーティは終わったんだけどな、ちょっとこれから付き合わなくちゃいけなくて…。送ってやれないんだ」
 朔はひどく申し訳なさそうだ。
「大丈夫。子供じゃないんだから、一人で帰れるよ」
 柚乃の笑顔に救われたようにして、朔も若干表情をほどく。
「わざわざ言いにきたの?」
「そりゃそうだろう。無事を確かめたかったし、お礼も言わなきゃな」
「無事って…大袈裟だね。過保護すぎ」
 妹の茶化しに兄は乗らない。真剣な眼差しのままだった。
「ありがとうな、ゆん。ほんと、助かったよ」
「うん」
 役に立てたなら、こんなに嬉しいことはない。
「それで、もう行かなきゃなんないんだけど…。――唖津、いるのか」
 柚乃越しに奥を見遣る。
「ゆんを家まで送り届けてくれないか」
「いいよ。喜んで」
 唖津の背後から、ひょっこり七海が顔を出す。
「え…七海ちゃんっ?」
「こんにちは、お兄さん」
 驚く朔とは対照的に、七海は鷹揚に笑む。その微笑に見惚れてしまうのは、どうやら柚乃だけだ。苦虫を潰したような顔で兄を振り仰ぐ弟と、二の句が継げず七海を見つめる兄。七海だけが動き、柚乃の数歩手前で歩みを止める。
「柚乃ちゃん、お兄さんに利用されてるって思わなかった?」


[短編掲載中]