「待って。誰が?」
「……」
「誰が言ったって?」
 どことなく苛立っている声だった。身が竦む。おそるおそる、繋いだ先にいる人物の名を唇に乗せる。
「俺?って、まじ待って。話おかしい」
「おか、しい?」
「一言も言ってない。なんでちーと付き合えて、んな後悔してるみたいなこと言うんだよ」
 声は、もうそれとはっきり判るくらいに、怒っていた。
「そんなの真に受けたの?直接聞いたわけでもないのに?」
 ぎこちなく頷く。顔は、上げられなかった。「……だって…」
 小さく息を吐かれ、ますます身を堅くした。一生このまま、動けなくなるんじゃないかというくらいに。
「ちー」
 柔らかく、声が降ってくる。けれど、意識して作っているのだと判る声質で。
「ちー、顔、あげて?怒ってんのは、ちーにじゃないよ」
 ぎこちなく、苛立つくらいの鈍重さで、顔を上げた。困ったような笑顔が対面する。
「それが原因?それで嫌がってた?」
「嫌がってなんか、ない。逆、だから…。意識しちゃう、の。自分の心臓が、秀司が近くにいるだけで…すごい暴れて……聞こえちゃったらどうしよう、とか、馬鹿みたいな心配とかして。そんな自分、秀司にばれたくなく、て…。初めてだから、緊張してるのもあった。そういうのばれるのも、嫌だった」
 どん引きされたら、耐えられない。
「そっか」
 ほっとした顔だった。智姫の正直な言葉に、満足そうにも映る。
「付き合わなければなんて言ってない。言うわけない。誰だよ、てきとーなこと言うの」
「ほんとに、ほんと?嫌ってるわけじゃ、ない?」
 繋いでいる手に力が篭っていく。しつこく確認する智姫に辛抱強く秀司は答えてくれた。
「俺さ、たぶん……なんでもいいから後押しがほしかったんだ」
 秀司の伝えたい意図が読めず、首を傾げる。嫌われてなかった事実だけで智姫は満足していたのだけど、話そうとしているものがあるのなら、聞くべきだ。少なくとも別れ話ではないことが、気持ちに小さな余裕を作らせていた。
「引かないで聞いてほしいんだけど…」
 ひどく言いづらそうに前置きする。引かれるのを畏れるのなら言わなければいいのに、とは思っても言わない。こんな生真面目なところも、秀司なのだ。そんな秀司だから、惹かれた。
 しっかりと頷いて、先を促した。
「本心ではさ、触れたいとか抱き締めたいとかキスしたいとかいつも思ってんのに、行動にうつせない自分が歯痒くて腹立って。急ぎすぎて嫌われたくないとか考えたりして。なのに…いざ触れちゃったら歯止め効かないのとかもあって」
 一気に吐き出し、唐突に口を閉ざした。顔も耳も、真っ赤だ。智姫もつられて顔に熱が上昇する。
「賭けのことは、頭になかった?」
「俺の中では取り消されたことだったし、そんな余裕なんて…ない」
 苦く言う。責めてるつもりはなかったのだけど、結果的には責められたと受け取ったのかもしれない。
「ごめん、秀司。意地悪で言ったわけじゃ、」と「さっきの、」が重なった。
 発言がかち合って互いに噤む。しばし黙した後、先に口を開いたのは秀司だった。
「判ってるよ。ただ、ちょっと…、今さ、ぶっちゃけすぎて失敗したとか思ってた。……引いた?」
 気おじの様子で尋ねる秀司に、はっきりと首を振って否定を示す。
 ずっとそんな風に智姫を見ていたのかと思うと羞恥も込み上げた。けれど、それ以上に嬉しかった。好きだったらきっと、自然に沸き起こる欲求の筈だから。
「秀司、言いかけてたの、なに?」
「あー、うん。…あのさ、さっきの…。ちーの本心だよな?」
「さっき?」
 どれのことだろう、と考えようとして、思い至る。秀司を繋ぎとめたくて、夢中で吐露した告白。
 ますます熱は上昇するばかりだ。空いている方の掌を押し当てたところで功を奏さないことは重々承知でも、せずにはいられなかった。
「う、うん…。本心、です」
「もう一回言ってくれると、嬉しいんだけど…」
 心の中で悲鳴を上げても相手には聞こえない。秀司も本音をぶつけてくれた。きちんと返さないのはフェアじゃない。
「ちゃ…ちゃんと、好き…だよ」
 言葉尻はどうしても窄んだ音量になってしまった。
 恥ずかしかったけれど。本当に嬉しそうに笑うから、言って良かったと思える。
「うん、俺も」秀司の笑顔が安堵に染まる。「俺も、ちゃんと好き」
 引き寄せる腕に身を任せた。すっぽりと温度に包まれて、逃すものかと背中に手を廻した。
 これが今の自分にできる精一杯。抱きしめる秀司の腕は、判ってくれている気がした。




[短編掲載中]