自分を好きになってくれた理由は、ずっと疑問だった。付き合う前の北條智姫を好きになってくれたのだとすれば、不名誉な渾名である鬼会長の呼び声も含まれている。物怖じせず、異性だろうが上級生だろうが向かっていく気風も含まれている。
 付き合いだしてそれらに変化が生じたとは思っていない。大きく変わったのは、己も自覚する通り、秀司に対する態度。
 感情が先走って、コントロールがつけられなかった。せめて今まで通りでいたいと願っても、騒ぎまくる心臓の前では制御など不可能で。
 口を閉ざし黙々と進む秀司の背中が、無言が広がれば広がるほど、怖くなる。唯一、二人を繋ぐ手を離されたら、たぶんもう、追い縋ることなんてできない。
 なにかを言わなければ、と焦燥だけが駆け巡り、まともな思考回路は展開できそうになかった。
 智姫の手をすっぽりと包む手が、小さく力を込めた。とたん、身を堅くする。
「ちーの本心が、みえない」
「…っ」
 こんな状況になっても何も言い出さない智姫に、本当にどうしようもないくらい呆れてしまうだろうかとよぎれば、ますます何も言えなくなってしまう。
 ――嫌われちゃうよ?
 本気の心配とも叱咤激励とも覚束無い友人の言が掠める。
「嫌いに…なった…?」
 搾り出した音量だった。喉はからからで、それでも無理矢理空気を飲み込むと、ごくりと音がした。
 判ってた。いくら普段通りにできないからって、いつまでもそんな態度では秀司を不快にさせることは。不本意とはいえ、咄嗟に避けてしまった事実は、秀司を傷つけただろうことも。そんなことを続けていれば、嫌われてしまうかもしれないことも。
 背筋に冷たいものが流れた。すっと寒くなる。現実味を帯びて自身に響く。
 淡々と進んでいた歩が停止する。合わせて停まるも、秀司の顔を見上げられない。俯いて、靴の先を見つめた。リノリウムが鳴って、視界の端に秀司の靴先が入ってきた。半身で振り返っているのか、片方だけ。
 終わりを告げられる前に、遅いかもしれなくても、正直な気持ちを言わなければ。煩雑に思案の散らかる頭ではなく、感情が訴えてくる。
 別れを想像し、泣きそうになるのを懸命に堪えた。泣くよりも前に、伝えなければ。その意思が智姫を支配する。
「……嫌いに…ならない、で」
 正直に口にしてしまえば、感情が次から次へと押し寄せた。言葉へと変換されて、外へ吐き出される。
「やだ、よ…。別れるとか、言わないで…」
 声が湿る。せり上がる感情に喉が圧迫されても、無理矢理にでも続けた。
「別れたくない、よ。……好き、だもん…。秀司のこと、好き…」
 土壇場になって縋りつくなど、みっともない。こんな自分を、知られたくなかった。
 友達であった時の智姫を好きになったのなら、今の智姫は、秀司が好きなった智姫ではない筈だ。こんな弱々しい自分を晒せば益々駄目になるかもしれないのに、止められない。
 だってこれは、紛れも無い智姫の本心で。
 再び、床材が鳴く。滲んでくる視界に、自分以外の靴先が二つ入ってきた。秀司の躯が智姫に正面を向けている角度にある。
「……別れる…?」
 秀司の声は怪訝そうにも聞こえるけれど、感情が昂ぶった状態ではそれも定かでなく。
 喉の奥が震える。涙が溜まって、靴先が見えなくなっていく。
「…つ、付き合わなければ…よかった、って……」
 もうほとんど、しゃくりあげてるような状態だった。どうにか捻り出した言葉に、更に泣きたくなってしまう。
 いまだ繋がれたままの手に、力を込めた。離したくない。
 こうして縋る智姫を、秀司はどんな思いで見下ろしているのだろうか。後悔を、智姫の知らない誰かに零していた秀司の気持ちは、取り返しのつかない位置まで離れていってしまったのだろうか。
「付き合わなければ?」
「言ってた、って。確かにこんなんじゃ仕方ないとか、思うけど。でも、」
 身を堅くする。続けられようとする言葉を聞くのが怖かった。耳を塞ぎたかったけれど、手を離したくない。


[短編掲載中]