最初は、才能だった。
 と、自分の想いを少しだけ客観的に分析できるようになった頃、そう思った。だからといって、何らかのかたちを変えるわけじゃない。心がきしきしと痛むのは、止められない。慰めにもなりはしない。
才能だけか、人柄もなのか。あるいは、両方か。――おそらく、そんなことはもう意味を成さなくて。
取り返しがつくのかつかないのか、を決めるなら、後者だ。自覚するのが遅すぎた。自覚したところで、どうこうできていたとも思えないけれど。
 どうにもならないことに悩むより、割り切って前に進めばいい。――そう単純にいけたなら、どんなに救われただろう。胸の内に靄を抱えたまま、今日もまた日常を遣り過ごしていく。

 南更紗が籍を置くリタ・デザインオフィスは、10階建てビルの7階にある。各階のエレベーターホール近くには自動販売機が1機ずつ設置され、狭いスペースに申し訳程度の小さなテーブルセットが2つ置かれていた。
 購入したばかりの紅茶ラテを手に事務所へと足を向けかけて、すぐさま戻る気分でもないなと思い直し、椅子に腰を下ろした。午前の外回りで持ち帰った案件を、午後から机に齧り付いて捌いていたものの、思うように運ばず定時を過ぎてしまった。残業無しで帰れることの方が珍しい勤務状況に慣れているとはいえ、この時間になるとさすがに集中力も切れてくる。いったんの休憩は必要だ。
 糖分補給にと購入したお気に入りの紅茶ラテを一口含む。柔らかい甘みが口内いっぱいに広がり、心地よい冷感が喉を滑り落ちていく。ひと息吐いて浮かんでくるのは業務再開後のこと。量を思うとうんざりもする。欲張って案件を引っ張ってきたのは自業自得に他ならない。特に今日は、面白いほどに話がとんとん進んで、片っ端から取ってきた。ついついあれもこれもと手を出してしまう。完成させるまでの工程が楽しくて仕方ない。
 仕事なのだから様々なことは発生する。なんのトラブルもなく順風満帆に進むことの方が稀有だ。実際、途中で投げ出したくなることも数えきれないほどあった。
 でも、完遂した時の感覚は、言い表し難い感情で。
 あの瞬間の為に、それまでの過程に苦しんでいると言っても大袈裟ではないかもしれない。自分の手でとってきた要望が形になる。そこに至上の喜びが存在している。
 リタ・デザインオフィスに入社して、5年目に突入していた。入社した2年後に、今の営業部に異動となった。更紗にとっては、人生の転機とも言える、大きな出来事だ。あれがよい方向に作用しているのかどうかは、自分では判らない。日々に追われるばかりで、突っ走ってきただけのようにも思える。
 ホールの方角から、エレベーターの到着を知らせる音がした。同じ階には複数の会社が入っているので、名前も会社も知らなくても顔見知りにはなる。誰かが通り過ぎるのに合わせて、少しだけ余所行きの顔を作った。
 足音が近づいて、更紗が何とはなしに顔を上げるよりも先に、「お」と男の声がする。同じ部署で同期である、嶋河暁登だ。
「お疲れー」
 鉄板の挨拶を投げ、ゆるりと余所行きを崩した。お疲れ、と挨拶する己の声こそが疲労感たっぷりなことに、笑いそうになる。
 暁登は同じ歳の同期入社ではあるが、彼は入社当時から営業部配属だ。営業職では先輩ということになる。社外でも逢う友人関係でもある為、だいぶ気安い相手だった。
「一気に態度崩しやがったな」
 苦笑を交えて近づいてくる。テーブルから椅子を引き出すと鞄を置き、自販機に向かった。背中に「ばれたか」と返す。
「意外と判り易いよな。仕事してる最中は判りづらいけど」
 購入した缶珈琲をテーブルに置きながら呆れた口調を落としてくる。暁登が座るのを待って、判りにくい言い廻ししないでよ、とむくれた。暁登の、少しも疲労を滲ませていない爽やかな様が、少し鼻につく。読解力無いな、と馬鹿にされたわけでもないのに、勝手にそんな気分になる。
 スタートラインが違っていたとはいえ、営業成績で暁登を上回ったことは無く、言ってみれば僻み根性でしかないのだけど。いつか抜いてやる、との闘志はけっこう前から持っていたりする。
「仕事ん時はさ、やっぱ色々外面作って声作って、ってやるだろ。これが後者な。たぶんみんながやってんだけど、南のは顕著。で、判り易いってのは、プライベート領域になった時。同期だから顔くらいは知ってたけどさ、異動してくるまで口きいたことなんて殆どなかったろ。南の第一印象、とっつきにくそうな奴、だった」
 なにを思い出したのか、暁登は可笑しそうに笑う。更紗の眉根に寄るしわは深くなる一方だ。
「奇遇。あたしも嶋河くんの第一印象、それ」
 同じだね、とわざとらしく明るい声を出す。大人げない、とよぎるも、無視だ。異動云々の話題には、以前に比べれば格段に減ったとはいえ、気持ちがささくれる。
 当人はおろか、誰もが納得の人事など、きっとこの世にはそうそう無い。内示を受けた段階で、辞表の書き方を調べ、実際書いてみたりもしたのだけど。
踏み止まったのは、楠木?輝の一言が大きい。
「負けず嫌いだな」暁登は、おもしれー、と笑う。「見てて飽きない」
「見世物じゃないんだけど」
 面白くない。ますますむくれ、紅茶ラテを煽る。
「俺はけっこう楽しいけどな。会社の外で南と逢うの。楠木の功績だな」
「あたしはびっくりしたけどね。嶋河くんと楠木くんが仲良かったなんてさ。同じ歳とはいえ、共有することなんて皆無だと思ってた」
「それもそうだな」くくくっと喉の奥で笑うと、一口珈琲を飲み下す。「うまが合う、ってやつだったんだろうな。今じゃ、なんで合ってしまったのか、とか思うけど」
 後悔してます、みたいな言い草が可笑しい。客観的にみれば二人は全く異なる性格をしている。人懐っこい高輝は別として、暁登は高輝みたいな人間をを苦手とするタイプだと踏んでいた。苦手でも露骨に出す真似はせず、円滑に仕事を進めはするものの、まさかプライベートでまで交流しているとは露程も思っていなかった。
 初めて社外で顔を合わせた時のことを思い出すと笑えてくる。
「しまったとか言ったら、楠木くん泣いちゃうかも。まぁ、判らなくはないけどさ」
 一緒になって笑うと、暁登も笑みを深くした。
 更紗と高輝は専門学校時代からの知り合いだ。3年制のデザイン学校で、卒業後すぐに高輝はリタ・デザインオフィスに入社。更紗は3年目の1年間を、2年制の別学校の夜間にも掛け持ちで通い、トータル4年間学んだのちに入社した。ひとつの学校でひとつのコースを学ぶだけでは、物足りなかった。そんな理由で始めた掛け持ちの1年間は、充実しすぎて己の欲張り気質を後悔することもあったけれど。
 念願叶ってデザイナーとして入社した2年後には、営業職に移ることになるとは想像だにしていなかった。
「楠木といえばさ、聞いた?」
 暁登の口振りから、続けられるであろう要件が察せられ、微妙に身構えた。その微妙さを敏感に嗅ぎ取り、暁登は苦笑して続けた。
「週末、予定はどうだ」
「パスしたい」やはりそうきたか、と即答する。
「それこそ楠木が泣くな」残念そうではなく、むしろ可笑しげにふざける。
「嶋河くんは付き合ってあげんの?」
「俺だけ行ったって単なる邪魔もんじゃないかよ。つーかさ、いい加減自分だけでなんとかしろ、と言いたいね」
「言っちゃっていいと思うよ。びしっと言って、あの甘えっこを教育してくんないかな」
 投げ遣りに言って、「付き合いきれないよね」と加えた。――本音は、「付き合いたくない」だ。
 楠木高輝は、ビルの同じ階に入っている別会社の子に、絶賛片想い中だ。協力を頼まれ、今では会社帰りや休日に出かけるまでに進展した。そこまで進展するまでに、何かにつけて引っ張り出されたのが更紗と暁登だった。二人だけだと緊張するからと、まずはグループ交際の恰好となった。最初の数回でこと足りるだろうとの見積はあっさり覆され、ことあるごとに付き合わされるペースは衰えを知らない。
 なにが楽しくて、自分の好きな人が、自分じゃない子と巧くいく為の協力を、しなきゃなんない。自業自得の種を撒いたのは他ならぬ更紗自身なのだから、できる範囲のことはやってきた。でもそろそろ限界だ。ここのところ、心が悲鳴をあげる頻度が半端なく増加している。



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