「華保、聞いて?」
 ゆるやかに良尚が微笑んで、隙を与えられないまま、再びぬくもりに絡め取られた。
「俺さ、小さい頃すっげー好きだった物語があったんだ。飛ぶ、ってことに対しての憧れが、そこからきてるのかもしんない。…成長してくうちにそんなこと忘れてったけど。そんな俺の感情を呼び起こしてくれたのが、華保のハイジャンなんだ」
 良尚の声が、すぐ傍で聞こえる。こんなにも近くにいる。
 華保の、感情を押さえ込もうとする理性は壊れかけていて、無意識の内にがっちりとしがみついていた。止めることができない。
 離れたくない。何があっても。その想いに逆らえない。
「飛ぶことは決して不可能じゃない。俺でも出来るって思った」
「良尚…」
「頼むよ、華保。俺が嫌いなら、そう言って?困らせることは、二度としないと誓う。余計なこと考えずに、気持ちだけ教えてくれないか」
 懇願の響き。華保が拒否することで、彼の気持ちを踏みにじり悲しませる。
 気持ちだけを。
 それを伝えることで彼のこの、悲しい響きを拭い去れる。今の華保に、できること。彼が望むこと。
「華保は、妨げなんかじゃねーよ。俺に、力をくれんだ。傍にいて、笑顔をくれるだけで、俺の力になる。――俺は、華保が好きだよ」
 想いは同じ。願いは同じ。
「あたし…」
「……うん」
「あたし、も…良尚が、好き」
 声にしてしまえば、心の決壊が壊れて、想いが溢れ出す。愛しい気持ちが満ちていく。
 包んでくれるぬくもりを離したくなくて、指先に力が入った。
「うん。…ありがとう」
 囁く良尚の声は、少し震えていた。添えられていた大きな手が、頭の後ろに移動し、きゅっと引き寄せた。
 こうして腕の中にいると何もかもを許された気になってしまう。自分を許してしまいそうになる。
 そうする必要はないのだと、きっと言うだろう。聞きたくないと、思うだろう。
 それでも、けじめがほしい。
「良尚、お願い。謝らせて。…謝りたい」
 良尚が不要だと言ったとしても、自分の中で納得いかない。許せないから。たとえ良尚や他の人が許してくれたとしても。
「いいよ。それで気が済むのなら」
 そう言って、良尚は笑う。
 ちゃんと判っていてくれる。華保の気持ちを悟った上で、聞こうとしてくれる。
「ごめんなさい。……ごめんなさいっ、あたし…良尚にひどい事ばかり言った。良尚を傷つけた。自分が苦しいからって、逃げ出そうとした」
 喉の奥からせり上がる感情を押さえきれなくて、嗚咽混じりになっていく。
 ゆっくりでいいよ、そう何度も良尚は囁いた。
「あの時はっ…あたし、あの時の自分がすごく嫌だった。そんな自分なら、良尚に嫌われても後悔しないと思ってた。けど、あたし…結局は、自分だけじゃなく、良尚の憧れだった過去まで壊しちゃったんだよね。…ひどいよね。自分勝手すぎだよね」
 良尚にしがみ付く指先に力がこもって、呼応するように、良尚の腕も優しく力を込めた。
「良尚が、どんな気持ちでいるかも、苦しみも、あたしは知っていたのに。…ごめんね。ごめんなさい…」
「…ずっと、苦しんでたんだな」良尚の切ない声音が落とされる。
 雫だけは零してなるものかと堪えた。
「違うの。あたしが…」
「もう、いいんだ。気にすんな。気にされすぎると、俺も困るんだって。な?」
「ごめ…なさい」
 ぽむぽむと、頭を撫でてくる。
「けど、良かった」良尚は、ほう、と安堵の息を吐く。
 良尚の顔を見つめた。柔和な微笑みをくれている。
「笑うなよ?……覚えてる?部活の奴らが見舞いに来た時のこと」
「うん」
「今、こーしていられんの、すっげ安心してんだ」
「――言ってること、判んないよ」
 安心をくれるのは良尚の方だった。華保のいいように、華保が安心できるようにしてくれる。自分には勿体ないと、思えるくらいの人。
「笑うなよ?」
 頬で熱が上昇しているらしい。念を押す良尚が可愛くも見えた。ついつい口の端が緩んでしまう。
「焦ったんだ、あの時」
「…?」
「入沢の奴、華保の恋人候補になる、とかって言い出したろ」
「華保は俺が好きなんだ、とかいきなり言った時だよね?」
 冗談めかすには心臓に悪かったよ、と文句を述べておく。
「その逆だよ。入沢のあれはマジだって知ってたから。…んで、焦って口走ったんだ」
「そうなの?」
 からかって誤魔化す為の手段かと思ってた。
 良尚は耳まで赤くなっていた。こうも素直に出されると華保までつられてしまう。
 こんな日がくるなどと、想像できなかった。
 良尚が差し伸べてくれる手を、離したくない。
「華保」
 抱き寄せる腕に、少しだけ力が入った。返事を返す代わりに、きゅっと抱き締め返す。
「必ず跳べるようになるから。華保を初めて見た時の光景、今でもちゃんと思い出せるよ。忘れてない」
 抱き締められた腕の強さに身を任せる。一番安心できる場所。ずっと一緒にいたいと思う場所。
「華保が今まで見てきた世界を、これから見る筈だった世界を、俺が代わりに見てくから。傍で見守ってて。俺だけを、見てて」
 こくり、と頷く。
 すれ違わずに、やっと想いが通じ合った瞬間。
 今までの時間が、頭の中を駆け巡っていた。
 優しい風が二人の間を吹き抜けていく。フィールドがら沸き上がる歓声が遠くに聞こえた。気持ちが穏やかで、歓声と柔らかな風の音と、目を閉じれば懐かしい雰囲気に包まれそうだった。
 華保がまだ、光の世界――フィールドにいた頃の感覚。
「ありがとう」
 今までと、今日も。総ての想いを込めて。真っ直ぐに目を見て言った。
 『絶対』など、有りはしない。だから誰もがもがく。悩んで、苦しんで。
 ここに、こうして辿り着けたことに、感謝する。
「ありがとう、良尚…」
「それは、俺の台詞」
 太陽が綻ぶようなあたたかい笑顔が華保を見つめる。
 大丈夫。
 確たる想いが芽生えていた。この瞳を信じていれば、きっと大丈夫。
 周囲にある音がひと際大きく耳に届く。
 決勝を制した者の名前が読み上げられているところだった。
 良尚が華保にした約束を、同じように宣言した無邪気な少年の名が、風に運ばれて会場内に響いていた。




[短編掲載中]