一歩一歩確かめるかのような鈍重な歩みは、慣れない松葉杖の所為で。
 目を、逸らしてしまいたかった。逃げ出したかった。真っ直ぐに自分を見つめる良尚の視界に入っていることさえも、罪になる。
 なのに、脚は根をはって動かせない。
「あいつ」
 歩きながら、器用にバランスを取りながら、半顔で後方を見遣る。その横顔に、なんのわだかまりも見つけられなかった。
「あいつ、俺と似たようなこと言ってやんの」
 言って、可笑しそうに笑う。
 指先が震えて、喉の奥から感情が込み上げて、強く唇を引き結んだ。
 ふい、と顔の位置を戻すと、良尚は柔和に微笑んだ。心臓が跳ねる。
「けど、約束を果たすのは俺だよな。そう思わね?」
 ――華保が見る筈だった世界を俺が見てくから。華保は俺の傍でそれを見守っててよ。
 そう言った時の良尚が、ここにいる。
 良尚の纏う空気に呑まれそうになって、慌てて気を引き締めた。流されてはいけない。傷つけてまで離れると決めたのだから、貫かなければいけない。
 良尚が一歩進んで、その分、華保は後退した。
「華保があんな風に言うのを考えたら、引くべきだって思うんだ。けど、俺が駄目なんだ。――傍にいてほしい」
「あたしには…そんな資格ない」
「資格?誰の為の資格だよ。俺が嫌いってんなら、」
 違うと言いたかった。ぎゅう、と唇を噛み締め、言葉を飲み込む。
 良尚の、真っ直ぐにものを見る、強い光を宿す視線が好きだった。
 今は、それから逃げたくて仕方がない。

 ――所詮、自分は弱い人間で。
 青空が平気になれると思った。良尚が傍にいてくれると、天気なんて関係なくて。心から、笑っていられた。
 強くなれると思った。ただの、錯覚でしかなかった。
 良尚が傍にいなければ、成り立たないものだった。

「今、ここで、これに頼らずに歩けたら」良尚は自身を支える松葉杖を睨み下ろす。「――考えてくれるか?」
 松葉杖を放す意思を示す。
「駄目、だよ。無理なんかしたらっ」
「だったら、どうしたらいいんだよ?俺の気持ち知ってんだろ。俺は、」
 他を捜して。そう言えと頭をもたげるのに、声にできない。良尚の傍に他の誰かが寄り添うと想像するだけで、嫉妬でおかしくなりそうだった。
 なんて、自分勝手…。
「ごめん」
 結局、口にできるのはこれだけだった。じり、と後退する。
 対峙する良尚は表情を変えず、躊躇うことなく、放した。床に硬質な音が響き、一歩一歩を確かめるように歩き出す。
「良尚っ!駄目!!」
 視線は外さず、華保も逸らすことができなかった。
 すぐにでも支えに動きたい気持ちと、制止を叫ぶもう一人の自分とが、華保の内部でせめぎ合う。
「っつ…!」
 ぐらり、と傾ぎ、考えるよりも先に、支えに入っていた。
 良尚に手が届いた瞬間、ふわり、とぬくもりが包み込む。華保を抱き締める腕が、少し息苦しいくらいに束縛した。
「放して。お願い、良尚…」
 弛むどころか、抱く腕に力が込められた。耳元に囁きが落とされる。
「ごめん。こうでもしないと、近づいてくれないだろ?」
「良、尚…」
「俺が嫌いなら、振り解いて逃げてくれ。追いかけられるほど動けないから」
 押し退ければこの腕が緩むと判っていた。できないのは、華保自身がこうしていたいからだ。
 望みは、傍にいること。気持ちは互いに同じなのに。
「あ、たしはっ…!」
「華保が好きなんだ。俺は…華保じゃなきゃ、駄目なんだよ」
 この腕のぬくもりを、求めてはいけない。受け入れていいだけの資格が、自分にはない。
「気持ちを受け入れられないのなら、きっぱりとふってくれ」
 どんな想いで良尚がそれを口にするというのか。感情が直接流れ込んでくるほどの息苦しさを覚えた。
 告白の返事は宙に浮いたまま。
 このまま決意を貫くのであれば答えは簡単だ。己の本心に蓋をして、断りを口にすればいい。
「頼むよ、華保…」
 縋りつきたいと願ってしまう己の本心を醜く感じる。冷静に判断すれば、明白だというのに。
「良尚…、放して…」
「華保が、なんであんな事を言ってまで俺から離れようとしたか、ずっと考えてた」
「ごめ、」
「謝んなって。気づかなくて、掛け直すことができなかったし。それに、華保の決めたことなら、納得しようと思った。俺といることで悔やんでいることは知ってたし、苦しめるだけなら、離れるのが最良なんだって」
 ちゃんと向き合わなかった俺が悪いんだ、と申し訳なさそうに言う。
「そんなのっ…違う、良尚はなにも悪くない!あたしが…」
 どうしてそんな風に、なれるのだろう。ひどいことを言ったのは、華保だというのに。自分勝手に吐き出して、切ろうとしたのに。
 怪我を招いた元凶である華保に、どうして穏やかに対面していられるのだろう。
「俺の配慮が足りなかった」
「違う」
「ずっと悩んでたんだよな?あんな言い方させてしまうまで、追い詰めた」
「違う、違うっ…」
 悪いのは、己の弱さだ。ちっとも強くいられない、自分だ。
 自信が持てなくて、強くなれなくて、勝手に僻んで、醜い感情を産まれさせた。誰も悪くない。良尚は、悪くない。原因は自分にある。
 喉が詰まる。胸が締め付けられて、首を横に振るしかなかった。
「辛かったろ?…ごめん」
 大きな掌が華保の頬を包み込んだ。首を振るのを止めた途端、視界がぼやけていく。間近にある良尚の顔が、見えなくなっていく。
「違う…よ、良尚。辛かったのは…本当に、辛かっ…たのは…」
 良尚なんだよ、と続けられなかった。込み上げる感情が邪魔をする。
「華保」
 優しく呼びかける。熱くなる頭の芯に、しっとりと沁み込んできた。その優しさに、負けそうになるのを、必死に拒絶した。
「良尚の夢、を…潰したくないの。邪魔には…なりたく、ない」
 障害にしかなりえない自分が腹立たしく、情けなかった。好きと言う、想う資格さえ、自分には無いのだと知った。


[短編掲載中]