「制裁?」
「あいつなんだろ?華保を泣かせたの」
 篠脇は自身の行動に確信を持っているらしい。
 急いで思考を巡らせた。あいつ、とは誰で、泣いていた、のはどれを指しているのか。
 可能性であげられるのは、華保の無茶を止めて伊織が部活へ戻り篠脇が校舎に入った後、入沢が現れた時。飲み物を手に戻った篠脇が二人を見つけた。
 とすると、あいつ、とは入沢ということになる。
 思い至り、口を開きかけたが一歩早く篠脇が綴った。
「風邪は…ひいてないみたいだな」
 それぞれのおでこに片手ずつをあて、互いの温度差をみた。よし、と一人で勝手に納得している。
 雨の中佇んでいた時のことも、含まれているらしい。まぎれきれなかったそれにも、篠脇は気づいていたということだ。
 だから、護るなどと、言ったのだろうか。
 なんにせよ、大きな勘違いが生じているのは確かで。
 制裁とは、入沢の口端が切れていたことに直結するのではないだろうか。
「入沢くんじゃないよ」
「は?」
「だから、篠くんの勘違いだよ。もしかして入沢くんを、」
「殴った」
 それがどうした。当然だろう?と顔に書いてある。頭痛がしそうだ。こめかみに指をあて思案に暮れる華保に、心底不思議そうに「どうした?」などと訊いてくる。
「どうした、じゃない。誤解なんだってば。入沢くんはなにも悪くない」
 そもそも、悪いのは華保だけなのだ。他の誰も、悪くない。
「……まじ?」
「大まじ」
 あちゃー、と首の後ろを掻いている。そこに放送がかかった。篠脇が参加する競技の収集だ。
「ちゃんと謝りなよ?」
 篠脇を睨め付ける。さっきまでいたのだから、そう遠くには行ってない筈だ。華保の脚でも追いつけるだろうと算段する。篠脇が謝るにしても競技の総てが終わらないと無理だろう。
「誤解、っつったってさ、あの状況みたら…。てかさ、あいつもなんで否定しないんだよ!?」
「いきなり殴りかかったわけじゃないんだ?」
「まじ、ひでぇ。俺をなんだと思ってるわけ?」
 野蛮人、と呟く。本気で言ってるわけではない。ないが、自覚はしてもらわないと困る。
 しおしおと萎んでしまった篠脇の姿を見て、ちゃんと反省できる人間ということを確認した上で、ばん、と背中を思いっきり平手打ちした。突然の痛みに声も出せなかったらしく、傍から見るとかなり笑える顔面で固まっている。
 華保がくつくつ笑うと安心したように表情を緩め、「ちゃんと謝るよ」と拗ねた口調で言う。
「よろしい。今は目の前のことに集中してよね。じゃー、行ってらっしゃい」
 ひらひら追い払う仕草で送り出す。時間厳守は最低限の常識だ。もたもたしてて遅れでもしたら棄権扱いになってしまう。
 行ってくらぁ、と走り出した篠脇は、数メートルも離れないうちにピタリと止まった。ぐるんと振り返ると声を張る。
「な、俺ってすごくない?有名人だよ、ゆーめーじん」
 ついさっきまであった反省ムードはどこへやら、だ。我が了見を疑ってしまうも、プレッシャーを撥ね退けていられることに安堵もする。
 得意気な笑顔はわざとらしくて。
 これも彼なりの気遣いなのだと判れば、素直に嬉しい。
「これ、ごちそーさま。見事優勝したら今度はあたしが奢るからね」
 缶を顔の高さまで持ち上げた。
「ちょっとは突っ込めよ、華保」
 呆れるようなむくれるような篠脇に澄まし顔で応対する。
「なぁ、華保」
「うん?」
「頑張れ、とかないわけ?」
「言われなくても篠くんなら平気でしょ?神経ず太いんだから」
「ひでーな」
 ぶうたれる篠脇に「冗談だよ」と笑い、真顔にして立ち上がる。今度はよろめくことなく、しっかりと身体を支えてくれた。
「要は気持ち次第だよ。――なんの為に跳ぶの?一位をとる為?その為だけに練習してきたの?そーゆうのも目標の一つだろうけど」
 受け留める側の篠脇も真摯に耳を傾けている。
「跳びたいから跳ぶ。それでいいじゃない。努力したって結果がついてこない人はいる。だけど篠くんは、努力しただけ結果がついてくる側の人間なの」
 備えられた能力を才能と呼んでもいいだろう。篠脇はそれを持っている。
 正面きって褒められることに慣れていないのか、照れ入っていた。
 だから、と続ける。
「頑張れなんてさ、プレッシャーかけるだけだから、言わないよ」
 とうとう耐え切れなくなったか、いったんフォールドを見遣り、華保に視線を戻す。
「やぁーっぱ変だわ、華保って」
「変ってなによ?」失礼な、と怒ったふりをとる。
 篠脇の表情の中に、華保の言いたいことを理解した、という部分を見つけた。
 すぐに全部を理解できなかったとしても、いつか判ってもらえたら嬉しい。一位をとるだけが総てではないってことを。もっと大切にすべき気持ちがあるってことを。
 失ってから気づいたのでは、後悔しか残らないから。
「ほら、行った行った」
 ぱん、と快音を鳴らし手を振った。
「行ってくる!」
「うん。いってらっしゃい」
「華保っ!代わりに見てってやるよ。華保が見ていく筈だった世界。俺の活躍、見てろよな!」
 言い切って大きく手を上げ振ると、今度こそ立ち止まらずに走り去っていった。姿が見えなくなっても、同じ体勢のまま、立ち尽くしていた。
 鮮明に蘇る場面を、何度も反芻する。彼と同じ台詞。――もう、遠い過去にさえ感じてしまうのが、悲しかった。
 我侭だったろうか。望みすぎただろうか。
 誰も傷つけたくなくて、自身も傷つきたくなくて。彼の夢も自分の夢も、全部を護りたいだなんて。
「――…たい」
 篠脇は光のもとへと駆けて行った。良尚もいずれ、その世界へと戻っていく。そうなることは、本心で望んでいる。
 けれどどうしても、今の自分と比べてしまう。この薄暗い場所に身を潜めることでしか安堵を得ることができない自分と。
「還り、たいよ…」
 言葉は掠れる。音にもならなかったのかもしれない。
 還りたい。――あの頃に。
 両手で顔を覆った。闇に閉ざされる瞬間、フロアに硬質な音が響いた。顔を上げ、相手を確かめ、瞠目する。
「よし…なお?」


[短編掲載中]