「あ…っは、ばかだ…。ばかだね、あたし…」
 皮肉な笑いが込み上げた。自分自身を嘲るもう一人の自分。
 判ってた。こうなることは、明白だった。考えることを拒絶して、それさえも判らないようにしていた。
 そうすれば楽だったから。周りに甘えていれば、楽だから。後悔を考えないように、気づかないふりをしてきた。
 過去が、華保を縛り付けていた。逃れられない楔が、じわじわと成長を続ける。傷に、抜けないようにと根をはっている。
 歓声や声援を遠くに聞きながら、目蓋を閉じる。真っ白な頭の中に心臓の音だけが響いていた。
 そっと、腫れ物に触るかのように呼ぶ声がして、ゆっくりと視界を開ける。
 隔たりを作った筈なのに、まるで無かったこととして、相手は笑いかけてきた。
「見つけた」
「ここにいるって、誰かに聞いたの?」
 普段通りにする相手につられたわけではない。端々に見え隠れしている目の前の、入沢の『無理』に合わせるべきだと思った。自分の為にそうしてくれていることが判っていてなお、無下にできるほど、非情になれない。
 食い下がる入沢に拒否を貫いた事実だけでも、充分に彼を傷つけた。
「なんとなく、こーゆう場所にいそうだなって思って」
 ゆっくりと近づいてくる入沢の口端が切れて赤く腫れていた。
「それ、どうしたの?」
 立ち上がろうとして、立ち上がれなかった。手の中から缶が滑り落ち、転がる。揺れる視界が凪ぐまで、じっと凌いだ。
 慌てて支えに入ろうと伸ばされた入沢の手は、華保に届くことなく躊躇い、転がっていった缶を拾った。華保に渡しながら「転んだんだ」と言い、腫れてる口端を親指で触る。
 嘘だ、と判った。
 判ったからといって、言おうとしないものを問い詰める訳にもいかない。
「大丈夫?」とだけ問う。
 入沢は曖昧に笑んで、平気、と言った。
「体調良くないのか?顔色悪いな」
「ちょっと、ね。でもだいぶ良くなった」
 対面しているのはひどく居心地が悪かった。ふるべき話題をふりたくなくて、口を開く代わりに身体を横にずらし、隣にスペースを作った。
 場の空気を濁す為の所作。いつまで経っても逃げ腰にしかなれない自分に嫌気が差す。
「座る?」
 しっかり見ていないと見逃してしまうくらいの微妙さで、入沢は後退した。
 距離を置く、という意味なのだろうか。友達としての境界線さえも引かれた気がして、寂しくなる。告白を断ったのはこちらなのだから、手前勝手だけれど。
 自分だけで精一杯で、自分のことしか考えてなくて。
 自分以外の大切な人達に、してあげられることなんてあるのだろうか。
 目の前の入沢はゆっくりとしゃがみ込んで、見上げる態で顔を覗き込んだ。
「舞阪さ、自分のこと責めすぎんなよ。自分が気にしてるほど、周りは気にしてない」
 悟りきったかのような颯爽とした口振りだった。
 責めすぎている、なんて思っていなかった。当然だ、と思っている。足りないくらいだ、と。
「俺は、後悔してないよ」
「え?」
 聞き返してすぐに、何のことを言っているのか判った。
「舞阪に悪いことしたとは思ってるけど、あれは俺の正直な気持ちだから」
 ごめん、という言葉は飲み込んだ。そんな言葉を入沢は求めていない。
「あたし…」
「どんなに理屈捏ねてみたって簡単に気持ちは切り替わんない。だから俺は、諦めないから」
 清々しいほどの断言。強い眼差しに、良尚がだぶって見えた。見えたことに、嫌悪する。こんな瞬間でさえ、自分は他の人をみている。
「って、それはさ、舞阪も同じだよな?」
 急に声の調子を変えられて、まじまじと見つめ返した。戸惑う華保を置いて、続けた。
「東郷がもたもたするようなら、かっさらってやろうかと思ってたんだけどさ」
 言い淀み、次を開きかけて、噤んだ。
「入沢くん…?」
「そろそろ出番だ。行くわ」
「…う、うん」
「まだここにいる?」
「もう少し、いると思う」
 どうして、という視線を向ける。そっか、と呟き立ち上がる入沢を目線だけで追い掛けた。立ち上がって華保を見下ろす格好になった時には、さっきまであった複雑な表情は消滅していた。
「またな、舞阪」
 またねを言えずに躊躇っている内に、入沢はひらひらと手を振って去っていった。
 ごめん、入沢くん。
 後ろ姿が見えなくなったのと同時に、死角からの唐突な冷感に珍妙な悲鳴をあげてしまった。入沢にとあけたスペースに篠脇が座っていて、悪戯っ子な瞳を無邪気に晒していた。
「び、びっくりした」
「やるよ。乾杯しよーっ」
 スポーツドリンクを鼻面に突き出されて半ば強引に受け取らされる。酔っ払ってるわけではないだろうが、常の数倍陽気になっていた。
「乾杯、って?」
「ひっでぇ。全然見てなかっただろ。決勝進出決まった」
 むくれっ面をしていても、嬉しさを隠しきれずにいた。
「ほんと?」
「嘘言ったってしょうがねーだろ」
 予測はしていたけれど本当に辿り着くなんて。興奮醒めやらぬ篠脇は持っていた缶の端を華保のそれにかつんとぶつけた。
「気、早くない?優勝してからでしょ、普通」
「喜べるうちに喜んでおこーってのが俺のモットーなんだよ」
「篠くんらしい」
 まるっきり子供だ。重苦しい空気を引き摺る余韻さえ吹き飛ばしてしまっている。
「やぁっと笑った。気分平気か?」
「……参ったな」
 お見通し、ってことらしい。そんなに表に出易いのだろうか。
「華保、制裁は下しといたからな」
 篠脇は、穏やかではない言葉とは真逆の、得意満面胸をはっていた。


[短編掲載中]