「篠くん…」
 一体、自分がどんな顔でいるのか想像もつけられなかったが、対面した篠脇が目を見開き、その表情で何となく想像がついた。
「明日本番なのに、なにやってんの?」華保は薄っすらと笑う。
「なにやってんだ、はこっちの台詞だ。雨ん中突っ立って、なにやってんだよ?」
 つかつかと歩み寄ってきて、すでにぐっしょりと濡れたタオルを華保の頭に被せた。直接当たっていた雨粒の痛みが若干和らぐ。
「篠くんは?」
 噛み合わない返答に苛立ちつつも、落ち着かなくて走ってたんだよ、と乱暴に言う。
「緊張してるんだ?」
 揶揄口調をとると篠脇の苛立ちは度数を増した。露骨に眉根を寄せる。
「それで、華保は?なにやってたんだ?」
 こっちは答えたんだからちゃんと返答しろよ、と言外にある。
「身体冷やしたら駄目じゃない」
「華保っ」
「……捜し物、してたんだ」
 肩を竦め、鈍く働かない頭で適当なことを吐き出す。
「なら、手伝う」
 素直に信じたわけではないだろうが、篠脇は怒顔のままぶっきらぼうに言った。
「大丈夫」華保は細く笑う。「見つかったから。帰ろう?」
 雨が降っていて良かったと、ようやと思い至る。頬を滑り落ちた別の雫を巧く隠してくれる。
「…華保」
 咎める雰囲気を咄嗟に振り払いたくなって、大仰に斜に見た。
「呼び捨てにすんなって、言ってるでしょ」
「――辞めんなよ」
 心臓が跳ねた。射抜くような篠脇の視線から逸らすことができなかった。
 今自分は、どんな顔をしているのだろう。ぎこちなくても口端を持ち上げているのが、笑顔に見えていればいいのだけれど。
「一言も言ってないよ?」
 空とぼける声が、軽く聞こえていればいいのだけれど。
「お見通しなんだよ、華保の考えんことなんて」
「人を単純馬鹿みたいに言わないでくんない?」
 確かにそうかもしれないけどさ、と乾いた笑いに篠脇はのってこない。真摯な眼差しを向けたままだ。
 その、真剣さの滲むまま、きっぱりと言い放った。雨音に負けず、それはしっかりと華保の耳に届いた。
「俺が、護るから」


◇◇◇


 大会の日は、晴天だった。昨日の大雨が嘘のような天気。
 忘れることの出来ない数年前の『青』を、そのまま写し取ってきたような空が広がっている。
 予定通りにプログラムは進行していて、伊織は部員と一緒くたになって一喜一憂している。どちらが高校生だか判らなくなるほどのはしゃぎっぷりだった。
 部内で起きた衝突は、結局のところ何の解決の糸口もないままだった。けれど、大会で成績として表われているおかげか、知る限りでは終息に向かっている風に思えた。
 粗方の雑務を終え、晴天の所為で気分的に重い華保は建物の中に逃げ込んでいた。
 フィールドを一望出来るフロアを二階に分けて建造された建物の、太陽の光が届かない奥の方に備え付けられているベンチに座っていた。
 陰になるここにいる限りではフィールドを見ることは出来ないけれど、切り取られた空だけが視界に入る。華保のいる二階はガラスも無い柱のみの造りになっているから、風は吹きっさらしで心地よい涼しさだった。
 競技場から湧き上がる歓声や応援の声が、風に乗って耳に届く。近いようで遠いざわめき。華保が二度と戻れない場所。
 篠脇にとっては高校に入ってから初めての大きな大会となっているけれど、もともとの記録は伊達ではなかったし、据わった根性だし、で着実に決勝へと進んでいる。
 注目も集めつつあるようで。
 伊織は手放しで喜んで、そのあまりの無邪気さが可笑しかった。
 カチンという金属の音に、ふと冷たい現実に意識を戻す。手の中で玩んでいた買ったばかりの缶ジュースの、無意識にいじってたプルが音を立て、無機質な余韻を残す。
 外気との温度差で汗をかいた缶から滴が滑り落ち、床の上で光る。落ちたばかりのひとつの滴を、しばらくの間凝視した。顔を俯かせていると、鼻の奥がつんと痛み出す。振り切るようにして顔を上げた。うっすらと缶についてる水滴を親指で拭い、その手を目の高さまで持ち上げると、音も無く吹いてくる風に指先が冷やされる。そして滴は、指先からゆっくりと重力に従って伝い落ちていく。
 涙を連想させた。
 雨に紛れて散々泣いたくせに、油断すると涙腺が緩みそうになる。
 考えないようにと努力をする。自分の為に。その方が楽だから。考えなければ悔やむことも泣くこともない。悲しみを感じなくて済む。
 卑怯者。己を詰る。
 周りを傷つけて、心配してくれる人が傍にいたのに、また、自分が楽でいられることを欲している。
 このままでいいの?
 人に任せっきりで、時間に任せっきりで、本当にいいの?
「だって、どうしていいか、判んないよ…」ぽつり呟く。
 声がころりと床に転がって消えた。
 動き出した思考回路が拍車をかけていくほどに、どんどん重たいものが圧し掛かってきた
 それは後悔と呼べるもの。


[短編掲載中]