良尚の転院の頃と、大会の時期が重なっていた。それを言い訳に、ずっとセンターには顔を出していない。
 メールがきて返信はするがこちらから打つことはなく、着信があっても通話ボタンは押さずにいた。当たり障りのない返信しかない華保に不審を抱いたか、メールの件数は減り、反比例して着信が増えた。
 心の中で謝ったところで相手に届く筈はなく。
 良尚と会うことを禁じたのは、己の中で決めたことだった。それを伝えず逃げ回るのが卑怯なことだと判っていた。いっそ卑怯者だと見限られれば、楽なのかもしれない。
 都と対面するのが、怖かった。偽った仮面など、都相手に通用しない。
 昔の自分。大嫌いな自分。
 嫌な部分だけが舞い戻ってきて、新たに、どうしようもない自分が出来上がる。
 過去は消えない。消せるものでも、忘れられるものでもない。しつこいくらいに纏わりつく過去を、持ち続けてる。きっとこれからも。
 強くなれると信じていた。助けてくれる手があるのだから、背中を押してくれる優しい手があるのだから。それを手放したのは、他の誰でもない、この自分だ。
 好きな気持ちは募るばかり。募るほどに誰かを傷つけてしまう。
 誰かに寄り掛かれば、その人を傷つけてしまう。その人を、潰してしまう。
 誰かに寄り掛かることでしか成り立たない強さなど、本物じゃない。
 独りでも本物を手に入れることができないのならば、欲してはいけないのだ。


 地面を叩きつける勢いで雨が降っていた。
 その最中にあって、雨具の一切を持たない人影がひとつ、人気のないグラウンドに佇んでいた。何をするでもなく、ただそこにいた。
 自分が発した言葉を脳内で幾度も転がしては、心が締め付けられる。
 結局、傷つけた。
 言ってしまった後で思案に暮れたところで変わることなどない。あれでよかったのだと、無理矢理だろうと納得するしかない。
 つい一時間ほど前、このグラウンドで、電話越しに、宣言をした。身勝手極まりない振る舞いで、良尚を傷つけて。
 大会を明日に控えた部活時間帯に、華保は少しも集中できずにいた。
 今と同じように、ただ、そこにいた。

 名を呼ばれ、意識の舵を慌てて手繰り寄せた。憂慮を帯びた伊織の顔があって、たぶん何度も呼びかけていたのだろうと想像する。
「すみません」
 腕に抱えているものがファイルだと判り、部活の最中だったと思い出す。
「具合がよくないなら帰ってもいいんだぞ?」
 ひと悶着後の部活なだけに、伊織も神経を尖らせているらしい。慌てて笑んで、大丈夫です、と返す。
 ふと送った視線の先に、通話中と思しき携帯電話が握られていた。二つ折りのそれは開かれた状態で持たれ、液晶画面が光を放っている。
 華保の目の動きに気づいた伊織は電話を差し出してくる。疑問符を浮べ受け取らずにいると苦く笑って更に持ち上げた。
「良尚だよ。どうしても話がしたいって」
 受け取る格好に差し出しかけていた手を引っ込めようとして、伊織に掴まれた。掌に乗せられる。そこに相手の顔が映し出されていたわけでもないのに凝視してしまう。
 伊織は、華保が手にしていたタイムウォッチを取り上げ、無言で指導へと戻っていった。緩慢な動きで耳にあてる。ファイルを持つもう一方の手に力が篭った。
「……もしもし?」
 我ながらぎこちない発声となった。ひどく緊張する。
「もしもし?華保?」
「うん」
「ごめんな。伊織くん経由で追っ掛けて」
 そうまでさせたのは、華保だ。見えるわけでもないのに、激しく首を振る。
 最後に会ってからそんなに日は経っていない。なのに、ひどく長い間、会っていない気がする。
 会わないと勝手に決意して、勝手にこちらから連絡を取らないとした。その後ろめたさが華保を責め立てている。
「少し、会えないか?」
 会いたいのに会ってはいけないと己に課し、決別を決めた。思わず肯定しそうになって、叱咤し、制止をかけた。
「ごめん」
 ここ最近、やたら口にしている台詞だ。良尚に指摘された通りだと思い至り、自嘲する。
「だよな。忙しいよな。…しばらく、センター通い休止するって聞いたけど」
「大会近いから、そっちに集中しようと思って」
「ごめんな。負担かけてるな」
 良尚も謝ってばかりだ、と思う。謝らせているのもまた、自分の所為。
「前にも言ったけど、感謝してるんだよ。空気懐かしむ余裕だってあるくらい」
「大会が終わったら、再開するんだよな?」
「良尚の方は?都さんのしごき、きつい?」
 強引な方向転換だったかと舌打ちしたい心地になるも、貫くしかない。
 数瞬の無言が落ちた。
 わざとらしいくらい明るい声音を作り、良尚の名前を呼んだ。電話の向こう側から伝わってくる空気で、怪訝そうな様子が窺えた。
「華保、やっぱ会えないか?少しだけでいいんだ」
 こちらの様子がおかしいことに確信を持っているのだと判る。電話じゃ埒があかないと、思ってもいるのだろう。
「無理だよ。ごめん」
 そう返すのが精一杯だった。
 顔を合わせるなど、できない。良尚の目を見て、平静に嘘を吐ける自信が無い。電話ですら、こんなにも指先が震えてる。
「華保…?」不安そうな声が電波越しに伝わる。
 原因を悟ることはなくても不審は抱いている。やはり言明しなければいけないのだろうか。そう過ぎった時には、するりと言葉が吐き出されていた。
「逢いたくない」
「華保?」
「もう、逢いたくないの」
 自分の声が、自分のものではなく耳に届く。
「――だって、あたし…、良尚と逢ってる時、辛かった。良尚の強さ見せられる度、ひがんでた。治る可能性のある良尚を、ねたんでた。治ることのない自分がちっぽけに思えて、惨めだった」
 頭の芯が熱い。言っていいことと悪いことの区別もつけられず、羅列していた。
 止められない――止める必要はない。
「良尚と逢いたくない。…一緒にいると苦しいの。苦しさしか、ない…!」
 妬み嫉みが無かったとは言わない。自分の最奥で、こんな醜い想いは、ずっと蠢いていた。怪我から目を逸らし逃げていたのは己の責任だったというのに。
 相手の動きの一切に構わず、通話終了ボタンを押した。


 思い返しては、自分を罵っていた。
 部活終了間際に降り出した雨は激しさを増す一方で、皆が解散した後、華保は独り戻ってきた。
 身体を冷やしていく冷感も、思考の芯までもを冷やすことはなかった。
 それを表面化させるかのように、頬に幾筋も熱いものが流れ落ちる。
「――華保?」
 雨音に混ざって聞こえた声を、幻聴かと思った。再度呼ばれ、そうではないのだと判り、声の方を見遣った。


[短編掲載中]