数分と経たないうちに華保の元へ、入沢がやってきた。入沢もまた、身を隠すようにして物陰へと入り、見つかりにくい場所へと移動した。
「偶然?…なわけ、ないよな。俺に用?…て、俺にとったらいい話ではないんだろうけど」
 頭の中では、ここに辿り着くまで様々な想定を立てていた。雑多に散らかる思考に浮ぶ言葉の中で、最適なものを選ぼうとしている間に、入沢は先に紡いだ。
「ま、察しはつくけど」重くならないようにと、明るく振舞う。「この前のことなら、俺が悪い。謝らないでくれよ?てか、最終宣言しないでくれよな。舞阪から言われたらさ、俺、立ち直れなくなるから」
 これから言おうとしていたことを、まるで見透かしている。声が出せないまま、双眸を見つめ返した。
「当たり、だろ?」
 くだけた口調をとっているが、表情はそれに伴っていなかった。
 あたしは、周りを傷つけてばかりだ。
 あのことは、消せない事実。自分を裏切った。気持ちを、心を、裏切った。そして、入沢の気持ちを、踏みにじってる。
 選んできたどの言葉も、言えなくなっていた。
「入沢く、」
「舞阪さ」遮る入沢から、常の明るさが消滅した。「こんな状況で言うのはあれなんだけど、俺と付き合わない?」
 思ってもみなかった申し出に、思考が凝固する。
「露骨に困った顔、しないでくれって」入沢は乾いた笑いを洩らした。
「っ、ごめんっ」
「俺の気持ちは、この前ので判ってると思うけど。本気だから」
「……それは無理、だよ…。あたし、最低な人間だから。入沢くんに甘えられない。これ以上、誰かを傷つけたくない。あたしは…誰かを傷つけることしかできない」
 どうしてなのだろう。うまくいかない。少しも、望み通りにはいかない。一歩も、理想に近づけない。
 傷つけてしまうだけだから。この人に頼ってはいけない。甘えてはいけない。
「俺は、舞阪の傍にいられるだけで幸せなんだ」
 真っ直ぐに、真摯に想いをぶつけられ、声が出せない。首を振るしかなかった。
「俺がそうしたいって、言っても?舞阪が他の誰かを見てたっていいんだ。――それでいいって言っても?」
「……ごめん」
 断るしかなく、謝るしかない。
 入沢の真剣さは痛いほど伝わる。なのに、欠片も褪せることなく、気持ちは良尚にしか向いていなかった。
 そんな人間の傍にいて、幸せでいられるわけがない。
 入沢は、一瞬言葉を止め、深く息を吐き出した。
「面倒だな」
「っ、ごめ、」
「面倒臭いよ、舞阪の余計な気遣いが」
 見上げた入沢は呆れて子供を見守るような眼差しを向けていた。
「要らない、そんなもん」
 軽やかに言って、笑う。な?と問われ、華保はくしゃりと表情を崩した。
「――入沢くん、お願いがある」
「なに?」
「あたしに、優しくしないで」
「……どういう、意味だよ」
「言葉通りにとってくれていい」
「構うな、ってことか?」
 苛立ちが、見えた気がした。目を真っ直ぐに見つめ返しながら、首肯した。
「…そう、とってくれて、構わない」
「舞阪っ…」
 歩み寄ろうと動く入沢を避ける形で一歩下がり、頭を深く下げた。
「お願い」
 優しくしてもらう権利など、無い。優しくされたら、甘えてしまう。
 そしてまた、誰かに甘えることで、誰かを傷つけてしまう。
 甘えるしか出来ない、愚かな人間になっていくのを、何もせずに黙って流されていたくはない。
「あたし、卑怯なんだよ。入沢くんのこと利用することになる。優しさに甘えて…。そんなの、貴方を傷つけるだけだよ」
「キモイ、キライ、キエロ、ってゆーなら離れるよ」
「そんなことっ…言うわけない!思うわけないっ!」
 気持ちは嬉しかったから。とは口にできない。してはいけない。
「俺さ、自分勝手な人間なんだ。舞阪に気に入られたいからいい人ぶってただけだから」
 冗談めかしていても、少しも冗談を言う顔つきにはなれていなかった。
 返す言葉が見つからない。
 優しさを、振り切れない。
「だからさ、俺は言えるよ。本気で思ったら非情なくらい切り棄てられる。嫌いだって言える。――俺から、棄てるから。舞阪が最低な奴だって俺が判断したら、きっぱり君を棄てる」
 それが本気じゃないことは華保にも判っていた。華保の気持ちを軽くする為に、懸命に吐いた嘘。
 本当のことを言う為の、嘘。
 だからその直後に言うのは、本当の本気だ。
 続きを聞いてはいけないと内側が叫んでいたけれど、突っ撥ねるだけの強さはどこにもなかった。
「だけど今は、君が好きだから。俺は、舞阪華保が、好きなんだ」


[短編掲載中]