良尚は言う。淀みなく真剣な面差しで、そして冷徹に。さも当然のことを述べるかのように、隣に立つ者を、その瞳にしっかりと写して。
 ――知らない子ですよ。違う学校だし、入沢が知ってるからって俺も知り合いとか言えないですよね。
 華保に一瞥だけくれ、直後淡々と言う。華保を「知らない人」だと。
 ――彼女いないって言いましたよね。フリーですよ、今。
 付き合って一年以上の月日を、存在そのものを否定された。
 心がぎしぎしに悲鳴をあげていた。精々精一杯、涙腺が決壊しないことを祈るしかない。平静を懸命に繕って、関わりのない人間を演じるしかない。
 本当についてない。最低最悪だ。
 良尚の隣に、寄り添うほどの距離感で立つ者は、上目遣いで好きな人を見上げている。そこは、良尚の隣は、華保の居場所だったのに。そう口にすることも許されない。
 悔しさも混乱も飛び越えて、悲しくてしかたない。この場から逃げ出しても悪い方向にしか導かれないと知っていて、逃げ出したくてしかたなかった。




 待ち合わせ場所に向かう自身の足取りが滑稽なくらい軽やかなのは自覚していた。約束してからずっと、この放課後が訪れるのが楽しみだったのだ。口元がだらしなく弛んでようが構うもんか。
 駅前にあるオブジェはこのあたりではポピュラーな待ち合わせ場所の一つだ。良尚と華保、二人の学校からちょうど中間地点にあるということですっかり鉄板になっている。
 受験勉強も佳境に突入した時期ではあるものの、たまの息抜きも必要だと久々に逢う約束をしていた。門限があるのであまりのんびりともしてられなくても贅沢は言ってられない。毎日メールや電話で会話があっても、実際逢う時間にはとても敵わない。
 オブジェ近くに立ち、あたりを行き交う人の流れを眺める。その中に良尚の姿を捜した。そろそろかな、と手にしていた携帯電話を持ち上げたタイミングで、メールの着信を知らせるメロディが鳴った。逸る心地を抑えつけつつ二つ折りの電話を開く。受信完了までのたった数秒が待ち遠しい。送信者の名前は待ち人――良尚だ。
 メールを開く。短い文面は色も素っ気もなく、しかも良尚には珍しい打ち損じまであった。意味不明な文面にはなっていない。瞬時に己の顔が落胆したのが判った。肩を落とし、電話を畳む。深い溜息と共に俯いた。
 約束が駄目になったのは仕方ない。気を持ち直し返信画面を開く。なるべくこちらの感情が入り込まない文面を念頭に、了解の意味合いのことを打って送信した。
 良尚には良尚の都合がある。大事な時期でもあるし我侭は言えない。物分りのいい思考を並べ立て無理矢理にでも納得しようとする。
 帰るしかないか、と動きだそうとして、
「ねーねー、暇になっちゃったんだよねー?これから遊びに行かないー?」
 軽やかな、否、むしろ軽薄な声がした。知った声にも思えたが背後からでは確認できない。自分に向けられたようにも感じられたが定かではなく。振り返って華保にでなければ恥をかくだけだし、仮にそうだったとしても乗り気になれる筈もない。
 無視を決め込み歩き出す。ちょっとちょっと、などと慌てた風に声が追い掛けてきた。やだやだ、勘弁してよ。しつこく粘られたらどうしよう。ますます気分が塞ぐ。
 可能な限りの早歩きで進む。振り切るまでに左足が痛まないことを祈るのみだ。
「なぁって。…舞阪っ」
 びたっと立ち止まり、ぐるんと全身で振り返る。あまりの勢いのよさに自身の身体が耐えきれず、軽くよろめいてしまった。慌てた様子の入沢が支えにと伸ばした手が届く前に傾ぎを止めることに成功する。
「ひっでーな。無視すんなよ」
「するよっ。知らない人だと思った!」反射で噛み付く。
「俺の声忘れちゃったわけー?」入沢は嘆くふりをした。
 あまりにも軽薄すぎる声だったから相手を確かめるのも馬鹿らしくて、とは言えない。
「……次からは普通にして下さい」
 呆れたのは伝わったようだ。はいよ、と返事だけは大変よろしい。
「舞阪さ、暇になったんだよな?」
 確信めいた語調に、良尚からのメールが思い出され、若干唇が尖る。
「予定ガラ空きになったんなら付き合ってくんない?映画観に行こうよ。一人で行こうと思ってたんだけどさ、せっかくなら誰かと観て感想言い合うとかも楽しいよな」
 返事も待たず映画名を口にする。華保も観たいと思っていたやつだ。即答するには暇になったことを認めるようでちょっと悔しい。せいぜい悩むふりでもしてやろうか、と意地悪心が湧いたのもなんのその。
「舞阪が好きそうだと思ったんだけど、違った?」
 などと返答を急かされてしまえば渋る理由も特には無くて。
「行く」
「よっしゃ。フットワーク軽くてよろしい。今から一番近いのだと…」
 と言って携帯電話を操作する。映画館のサイトを呼び出し、数秒と経たないうちに画面を華保に向けた。
「これでよい?」
 こっくりと頷く。「歩いていったらちょうどよさそうだね」
 同時に歩き出した。と、これまた数秒と経たないうちに、入沢は隣から覗き込む仕草をした。
「本当は嫌だった?帰りたい?」
「え、まさか」暗い気分が表面化してしまった?慌てて何でもない表情を作った。「嫌じゃないよ。楽しみ」
「そ?……連絡入れてきたのって東郷だろ。気がかりでもあんの?」
「急用ってなんだったのかなぁって思ってただけ。ついこの前も同じことがあって。メールで一方的にっていうのも、らしくないっていうか…。最近元気ないみたいだし」
 ふむ、と考え込む態をとる。入沢には原因が判っているんだろうか。と注視する。再び華保へと顔を向けた時には暢気な笑顔を見せた。
「面白いもん見せてもらったから映画代奢るよ」
「はい?」
 なんらかの答えが得られるかと思ったのに。肩透かしにこけそうになる。
「百面相。見事な喜怒哀楽拝ませてもらった」
 華保が口を差し挟む間もなく入沢は続けた。
「メールの相手確認して喜んで本文読んで哀しんでそれからちょい怒ったろ」
 おぉ、となると楽はなかったか。真新しい発見でもしたかのように大袈裟に声を上げた。
「あたしそんなに顔に出易い?」
「自覚ないなら重症だ。悪いって言ってるわけじゃないぞ?」
 むくれるのを見越した先取りに不貞腐れたのを咄嗟に隠す。それさえも踏まえた口振りで入沢が言う。
「よく言えば素直だ」
「悪く言えば単純ってことじゃない」
「判り易いとこも可愛いって東郷が、」
 良尚がそんな台詞言う?と胡乱げな眼差しで斜に見上げた。入沢の笑みは完全にからかう時のだ。
「思ってるな、たぶん」
 やっぱりね、と呆れる。絶好の揶揄対象になる発言をするわけがない。
「んで、むかつくメールだったとか?」
「怒ってなんか、」
「なくないだろ?しっかりこの目で見ちったもん」
 Vサインの指先を自身の瞳に向けて前屈みになる。入沢に言い切られたら言い張っても意味がない。
「怒ったというか、その…急にってのが連続したから」
 言ってるうちに、それはつまり怒ってるってことになるのでは、と己の中から突っ込みが起きた。というより、不安なのかもしれない、とも思う。
 付き合うことになってから今回みたいな事態は初めてで、一応前置き的なことは聞かされているが詳細は不明なまま。素っ気無いメールだけでキャンセルされるとなると何かよくないことが起こっているのだと想像してしまう。前回はその日の内に電話でフォローがあった。深く捉えようにも詳細が不明で、そうすることは良尚が許さなかった。
 二度続けば三度目も?もしかしたらこの先ずっと?もっと悪い方角に転がるなら、フォローも前置きも実は嘘で、自然消滅を狙っているとか?次々湧き出した負の思考がむっとした表情になったのかもしれない。
「な〜るほど、ね」
 入沢は訳知り顔だ。喰いつきよろしく見上げた。
「厄介ごとが発生してるって言ってたのと関係ある?」
「そこは聞いてるんだな」
 華保は心配しなくていいから。ただ落ち着くまでは嫌な思いとかさせることもあるかもしれない。
 前回のフォロー電話で言われた。心配いらないからと、しつこいくらいに念押しされた。切迫した声音には詳細は聞くなとの懇願も感じられて、問い質せなかった。
「知ってたら教えて」
 自分が切羽詰った顔になっているとは自覚していたが変えようもない。入沢が事情を知っているなら繕う必要もないわけで。
 口止めはされていないのか構ってないだけなのか、あっさりと白状する。
「厄介な人物に付き纏われてて、」
「危ない目に遭ってるのっ?」
 遮ってまで飛び出したのは素っ頓狂な声。音量もそれなりだったらしく、近くを行く何個かの視線が感じられた。が、それらを気にしている猶予はない。
 声に緊張を走らせた華保とは対照的に入沢には緊迫感の欠片もない。
「詳細は聞いてない?」
 いっそ軽やかな口調は続く。
「余計な心配させたくないからって」
「余計余計な心配するっつーのな」
 な、と同意を求める目を向けられる。さすがよくお見通しで、と感心すると同時に、だからするすると入沢には零しちゃうんだなと気づく。
「ちゃんと話してほしいって思うんだけど」
 華保のことを考えてだ、と(驕りとかではなく)とるのであれば彼がよしとした判断に任せるしかなく、追求は正しくない。
「一人で解決したいんだろーなぁ。まぁ、中身が中身なだけあって、舞阪には言いづらかろうさ」
 入沢からは一向に深刻さは感じられない。単なる気にしすぎだったのだろうか、と胸を撫で下ろしかけて、
「ストーカー女版」
「え!?」
 濁点がついた。瞠目する華保を差し置いて、やっぱり入沢は飄々としている。
「だな、あれは。ってな厄介ごとを抱えてるってわけだ」
 あまりにも軽すぎの語調に冗談なのかと疑いも沸く。入沢には天気の話でもしてるかのような暢気ささえある。
「えっらい美人なの」
「年上?」
「おねーさま、って感じな。で、たいていの男はふらっとくる。簡単になびく男には興味持たないらしくて。いわく、なびかない男に執着し、なびいた途端ポイ。だとか、いわく、目をつけた男に彼女がいた場合、彼女を脅しつけて別れさせる。言うこときかなければ闇討ちして重傷負わせた。とか、いわく、一度寝たら興味が消滅して終了する。とか」
 つらつら挙げていく事柄を目を剥いて聞くしかなかった。唖然と口が開けっ放しになる。
 諳んじていた入沢は言い零しがないかしばらく考えている風情で、あ、と漏らして「勿論証拠が無いから逮捕されたことはないみたいだ。闇討ち事件のは」と平然と付け加えた。
「ということで、舞阪に被害がいかないようにしたいからだろうなぁ」と相も変わらずのんびりしたものだ。
 入沢の声音に変化はなく、荒唐無稽な話でも聞かされてる気分になる。真剣味が全くといっていいほど感じられない。これって作り話?
「んで、噂を鑑みてやっちゃえばとアドバイスしたら2週間口きいてくんなかった」と笑う。
 ふざける入沢と機嫌悪くしかめっ面の良尚の構図が浮かぶ。
「入沢くんならできるの?男の人ってみんなそう?」
「俺だったら付き纏われる心配ねーもん」
 まったくもって質問の答えにはなっていない。さてははぐらかす気満々らしい。斜に見上げた先、入沢の前方に置いていた視線が一点に固定されていて、何かを発見したらしい動きと「おおっ?」と素っ頓狂な声が上がった。


[短編掲載中]