互いの歩みが止まるのはほぼ同時だった。顔がしっかりと確認できる距離感は逃れるべくもなく。知らんぷりが通用する機はとうに逸していた。逃げ腰のまま、入沢の歩調に合わせて近づいていく。良尚の隣を確保している者も、入沢を認め知り合いに対する顔になった。
 ほんの刹那だけ覗いた良尚の表情と入沢の溜息で、厄介の種と見事な鉢合わせと悟る。
 声を交わしても障害ないくらいまで間合いを詰めた。入沢の評価は正しい。男女の感覚差が生じることはないであろう、美人なおねーさま。見聞よろしくない噂があるとは思えなかった。
「奇遇だなぁ、東郷。…お、八幡サンじゃないっすか」
 知り合いに投げ掛ける入沢の軽い挨拶に合わせて華保も会釈をしておく。自分の立場を明かすわけにいかない、ということだけは明白で、かといってどうすべきかは皆目見当がつかない。リアクションを曖昧にするのが無難と判断する。
「東郷くんの、知り合いよね?」
 尖った視線が刺さった。立て続けに尖った語調が刺さる。敵意剥き出しだ。威嚇で露わになる牙の幻覚でも拝めそう。
 ここはどう返すのが正解?良尚を窺うわけにはいかないから入沢を窺う?悩む必要のない質問にもたついたら怪しまれちゃうよね?
 瞬時に最善の回答を捜索する。その隙に良尚が割り込んだ。
「知らない子です」
 すっと華保の周りの温度が低くなる。いっそ冷静すぎるほどの声。平然と目の前で自分を知らないと言われるのがこんなにもきついとは思ってもみなかった。
 駄目だ。泣きそう。
 指先が震えて、誤魔化す為に鞄を持ち直す仕草をとった。肩から下げた持ち手をきつく握り締める。入沢が小さく短く息を吸った。何気ない装いで半歩分華保に身体を近づける。
「嘘。見かけたことあるもの」
 八幡に揺らぎはない。確信を持って見抜いてる。揺らぎない態は良尚も同じだった。
「そうでしたか?覚えないですね」
 真剣な面差しが、一瞬だけ華保に向いた。すぐに逸らされる。華保だけに伝わる合図はない。本当に見知らぬ人と対面している気分にならざるを得ない。
「違う学校だし、入沢が知ってるからって俺も知り合いとか言えないですよね」
 良尚は容赦なく断言した。淡々と、完璧にこなす。心が抉られた。痛い。痛く、つらい。
 痛みから逃げるにはこの場を離れるのが一番だ。判ってる。自分を護りたいのなら一秒でも早く目の前の二人から視線を逸らすことだ。感情のままに流されそうになり、理性で踏み止まる。下手な態度はとれない。判っていても、きつい。
「知り合いよ。東郷くんの彼女じゃないかって誰かが言ってたわ」
 拗ねた視線で甘えた声を出す。
 爪が喰い込む掌の痛みはすでに麻痺していた。当然の顔して、隣に立たないで。そんな瞳で、見つめたりしないで。
 油断すると叫んでしまいそうになる。奥歯を強く噛み締めた。
「彼女いないって言いましたよね。フリーですよ、今」
 自分の顔が、強張ったのが判る。駄目だ。もう無理。
「あー、あれだ。そん時俺もいなかった?」
 俯きそうになる間合いで入沢が発声した。暢気とも能天気とも取れる口調だった。おかげで華保も目線を下げずに済んだ。
「俺、いましたよね?」
 念押しの如く八幡に問う。横槍にむっとし、それから入沢の言ったことを咀嚼し、首を傾げた。疑いの空気は払拭されていない。
「東郷さ、人の顔とか覚えんの苦手だよな?何回か逢わせたことあんだけど、たぶんそん時のこと言ってんじゃない?」
 畳み掛けるように続けられ、自身の記憶に自信が無い様子の八幡はむきになった。
「で、でもっ、彼女だって言ってた人がいるんだからっ、」
「それこそ嘘ですよ。だって、」
 ふ、と動きがあった。自分の身体が、自分の意思とは無関係に、傾いだ。目の前に陰が差す。鼻先に布の感触があたった。肩に力強いぬくもりが触れていた。
「華保は俺の彼女ですから」
 耳元に入沢の声が降る。あまりの近さに吐息で華保の髪が揺れた。視界を埋めたのは、制服の色。片腕で抱き込まれたのだと理解するまでに数秒は要した。肩に置かれていた掌が頭へと移動し、さらに密着させられる。
 浸透させるかのような呟きが落ちてなければ、状況を把握した瞬間に飛びのいていた。
 顔、隠しとけ。
 華保だけに囁く。目頭が熱くなり、堪えた。泣くもんか、絶対。
「だけど、」八幡はわなないた。「いくら顔覚えが苦手と言っても、話をしたことのある相手を全く知らないと言い張れるほど記憶力が悪いわけじゃないでしょ。しかも友達の彼女なら尚更…っ」
「内緒にしてたもん」入沢の調子は変わらない。つらっとおどける。「可愛いからさ、とられないよーに。密かに先越しちゃっててごめんなぁ?東郷」
 ぬくもりに護られるだけになった華保には合間にある表情の応酬は想像もつかない。目の当たりにしなくてよかったと、ほっとするだけだ。
「そんなのっ…!」
 納得しきれないらしい。切り崩し点を探っているのか必死な様子は見えなくても感じられた。
「なんなら証拠見せましょうか?濃厚ラブシーンでもお見せすればご納得いただけます?往来だから限界はありますけど」
 ぽんぽんと頭を叩かれた。大丈夫、と言われた気がした。無意識のうちに持ち手を離れた手が入沢の制服を握り締めていた。ぎゅっと掴む。と、不意に入沢が離れた。
「お見せすんの嫌みたいなんで、やっぱ止めときます。俺ら予定あるんで、失礼します」
 ぺこんと頭を下げ、入沢は回れ右をした。振り返る必要なんかないからと言うかのように、背中を押されて歩き出す。
 俯いてしまわぬよう、せめて後ろ姿は平然と見せかけられるよう、顔を上げて歩いた。




「落ち着いた?」
 入沢が買ってくれた缶のホットココアを手の中で弄びながら頷いた。駅裏の広場に置かれたベンチに並んで座っていた。人の通りはそこそこあるものの、混雑するほどではない。
 落ち着いた頃合いを見計らっての絶妙なタイミングに、本当に自分は感情が顔に出易いんだなと苦る。
「落ち着いた。ありがと」
 プルを開けようとして指が滑る。かちんと冷ややかな金属音が消えぬうちに隣から伸びてきた手が缶を攫っていく。
「ほいどーぞ」
 口の開いた缶が戻ってきた。まだ動揺してると思われた?気恥ずかしさで小さくなった音量で礼を述べ、両手でしっかりと持って一口含んだ。あたたかな液体が身体の内側から温めてくれる。
 ちらりと窺ってみたら目が合った。入沢の顔に意味ありげな笑みが浮かぶ。
「土下座しろって言ったら即行やると思うよ。せっかくだからさせてみれば?」
 ふざけるにも程がある。目を剥く華保に入沢はからからと笑った。ふざけるのが楽しいのか華保の顔が可笑しいのか判然としない。
「土下座することなんてない」
 つられて冗談に乗ることはできなくて、かぶりを振った。たぶん気遣っての軽口なのだ、と考えると気遣いを台無しにする自分が嫌になる。
 が、あながち冗談ではなかったらしい。厳しく変化した声音が非難した。
「舞阪を傷つけたろ。痛い思いさせといて謝罪なしは通用しねぇって。土下座でもぬるい。甘やかしたら駄目だっての」
 思わず笑み零れた。入沢は不本意そうにする。
「笑ったりしてごめん。甘やかすなって言う入沢くんはあたしを甘やかしてるよなって思ったらおかしくて」
「おかしくないっての」
 たまには真剣な話してんのに、とぼやく。
「いつもタイミングいいよね。…いつも助けられてる」
 部内衝突の後も、陸上大会の時も。
「ヒーローとはそういうもんだからな。俺ってば頼りにされてる?」
「しちゃってる、よね」
 迷惑かけないようにするね、と口にしかけた時には入沢はベンチから立ち上がっていて、華保の真ん前で片膝をついた。真剣な双眸で見つめられ、続けようとした言葉は飲み込んだ。
「迷惑とかじゃないから」ほんの少しだけ逡巡の素振りがみえた。「舞阪は友達…の彼女だからな。それにほら、人から頼りにされんのって快感じゃん?俺、けっこう好きみたいだし」
 後半はどんどん声の調子が上向いた。速度も早まって、言い終わる時には入沢は立ち上がっていた。鞄を持つ。
 華保には口を差し挟む隙が与えられない。
「東郷、そろそろ到着するかな。俺、退散するわー。ちと悪ふざけがすぎた。フォローしといてくれると有り難い」
 平時の軽い調子をぶつけられ、言葉を捜しているうちに入沢はじりじり離れていく。去る寸前の態が見えて、追い掛け立ち上がるも「そこで待ってないと駄目だろ」と判るジェスチャーに動きを封じられた。
 名前を呼び掛けるもまたもや遮られる。まるで先を急ぐみたいな焦り方だ。
「俺はさ、東郷をコケ下ろすこともフォローすることもできっからさ、気軽に利用してよ」
 じゃあな、と手を上げた。と同時に別角度から良尚の声がして、反射でそちらを見遣っていた。まだ姿は見えない。ひと足先に見つけたからの退散なのか、と顔を戻した時には、入沢の姿は見えなくなっていた。
 ずっと、疑念が纏わりついていた。演技だと信じる傍らで、演技ではないのかもしれないと。本当に自分と良尚は知らぬ者同士だったのかもと。もしくは、そうでありたいと良尚は望んでいるのかもしれないと。
 対峙した良尚が克明に思い出され、ちくりとした痛みが刺す。掻き消すようにして入沢の軽口が蘇る。
 謝罪が必ずあると断言する。良尚にとって不本意な状況だったとしても、華保を傷つけたのは事実だ。あれが演技じゃなく本心や望みから出た態度だったとしたら、謝罪する意味自体がない。
 しっかりフォローはしてるんだ。
 妙に感心してしまう。去っていった方向を見遣り、顔が綻んだ。どこまで真面目に受け取って実行いいものか判断を誤まると後悔を招きそうだけれど。直後の展開を想像してみたら笑いが零れた。
 足音は瞬く間に距離を縮めてきているようで。到着までには怒ってるふりでもしないとな、と考えると余計締まりなく弛むのが感じられた。
 別に土下座されたいわけじゃないけれど、意地悪して言ってみたらどんな顔するかな?




[短編掲載中]