人が想いを失う、その瞬間、音がする。
 痛くて、悲鳴をあげる、心が軋む、音。


 柔らかくおちてくる甘い声が、心地よく耳に沁みた。心の中が、ほわり、とあたたかくなる。
 おまじない、と言ってせがまれるようになって、何回目になるだろう。数え切れないほどの回数を、けれどそれはいつも、人目を憚ってのこと。
 今だって周囲に大勢がいるわけではないけれど、向かい合って手を取り、おでこをくっつけ合う人影なんて目立つじゃないか。なんて、抗議めいた気持ちを込めて良尚を見つめ返しても、華保に返ってくるのは見守るような優しい視線。
 不服の念すら包容する温度を感じさせた。
「誰も気にしないって」
 華保の思考を汲み取って良尚は言う。
 柔和に細められる瞳が、現況でなければ素直に受け止められるのだけど、今は「意識してんの?」と揶揄されてる気分になってくる。
 ――始まりはどんなだったっけ?
 真っ直ぐに彼の瞳を覗き込んだまま思い巡らせる。
 常に一枚上手な良尚に、ほんの少しの意地悪を返してやりたくなった。こうやってお願いされるのは嫌じゃない。むしろ、嬉しい。だけど、いつだって自分だけが一喜一憂しているみたいで、悔しい。
「かーほ?」
 本当に良尚はずるい。どうすれば華保が弱いか、知ってるのだ。さきほどよりも更に甘い声が自分の名前を呼んだりすれば、あっさりと折れてしまいそうになる。慌てて気を引き締めた。
 たまにはこちらの意地悪にあたふたしてくれたってよさそうなものなのに。
「おまじないに頼らなくても、実力あるでしょ。やってもやらなくても変わらないって」
 これは真実。おまじないなんてものをこうして試合の前にやってなかった頃からみて、劇的に変わったことなんてない。努力が着実に形を成しているのであって、決しておまじない効果ではないのだ。
「おまじないがあるからだって」
「関係ないってば。あたしにはなんの力もないもん」
 良尚にしてあげられることがあるなんて、やっぱり実感が湧かない。
「駄目?」
 華保よりもだいぶ上にある目線が、おねだりする子供みたいになる。懇願の響きで名前を囁かれ、突っ撥ねる意思なんて容易に崩壊してしまった。
 最後の抵抗とばかりに唇を尖らせ、渋々なのだ、と示す。周囲の気配がさきほどよりも減っているのを確認して、目の前の双眸を見つめ返した。
 繋いでいた手に力を入れる。そうすれば良尚は高さを合わせるために屈んで、互いのおでこをくっつけ、華保が決まり文句を言う。筈だったのだけど、一向に高さを合わせる気がないのか、良尚は悠々とした立ち姿のまま、華保を見下ろしている。
「良尚?」
「うん?」
「……届かないんだけど?」
 思いっ切り不貞腐れた声が出た。たぶん、顔もそれに倣っている筈だ。
「だな」
 緩やかに閉じられていた唇の端が少し持ち上がる。状況を愉しまれているのは否めなく、華保はますます唇を尖らせた。
「意地悪するなら、やんないから」
 完全にへそを曲げた幼児然となってしまったけれど、自分は悪くないもん、と顔をぷいっと横に背けた。くっ、と笑いを噛み殺す音がして、続けて「ごめん、ごめん」と気配が近づいたのが感じられた。
 顔を正面に戻すとおまじないの時にある位置に顔があって、その目蓋は閉じられていた。すぐさま実行せず、じっと見つめる。
「華保?」
 成されることを信じて疑ってない顔つきだ。
 本当に悔しいけれど、逆らえない。なにより、自分の心に。誰より、彼の為に、彼の望むことをしたいと思うから。
 そっとおでこを寄せる。こつん、と柔らかくくっついて、華保も目蓋を降ろした。
「良尚ならやれる。大丈夫。楽しんで」
 本当に心から願って、ゆっくりと口にする。うん、と小さく良尚が呟いた。
 数秒待っても、離れていく筈のおでこが離れない。不審に思い、目を開ける。さし迫る状況に、胸の内だけで悲鳴をあげた時には、唇に柔らかい感触があたっていた。
 ほんの一瞬。けれど、確かな。
 驚いた形相のまま口をぱくぱくさせる華保の耳元に、良尚の唇が寄せられる。吐息がくすぐったい。
「楽しんで、って言われんの、すっげー好き」
 頬に弾けた熱を吸うかのように、今度はそこに唇を寄せてきた。
 こんなにも鼓動を騒がせることを平然とやってのける良尚には、やっぱり敵わない。


[短編掲載中]