露骨に嫌がる表情を見せているのも一種の照れ隠しなのだと覚れば、意地悪心が目覚めるもので。少しくらいなら普段のお返しということで許される、筈。
 華保は胸に抱いた二冊の雑誌を、横から抜き去ろうとする良尚の手から固守すべく身体をよじった。
「買わなくていいって。なんだって二冊も同じもん買おうとするかな。だいたい、それ、教材じゃないだろ」
 授業で使う参考書を購入したいのだと、大型書店に寄ってもらった。店内に踏み入るや、スポーツ雑誌が陳列されているスペースにまっしぐらに向かえば、後ろをついてきている良尚が苦虫潰した顔になっていくのが背中越しでも感じられた。
「かーほ」
 のんびり口調とはいえ、確実に奪ってやろうとの意志が見える動きで手を伸ばしてくる。腕が長いので油断するとあっという間に奪還されてしまいそうだ。
「教材も勿論買うよ?こっちはついでだもん」
「可愛く言っても駄目。そんなん無くても実物がここにいるんだからいいっての。見たけりゃいつでも見れんだろ」
「それとこれとは別。跳んでる姿、好きだし」手にしていた雑誌のページをめくる。
 すんなりお目当てのページを開いて良尚に向けた。「これ、すごくいい」
 実はすでに一冊買ってあるんだよね、というのは内緒。
 踏み切って、足が地を離れ、重力に逆らって跳んだ瞬間を切り取った写真だった。下方からのアングルに写り込んでいるのは、しなやかに舞う良尚と、青い空。風の音すら聞こえてきそうなリアルさを漂わせていた。
 ページ一枚いっぱいに載せられた写真の下に、大手スポーツ会社の名前と宣伝文句が添えられていた。ぱっと見、広告を目的としたものとは判らないレイアウトになっている。
 良尚は、当の本人が写っているのだからいちいち見る必要はない、と言わんばかりにげんなりとする。
「入沢か?」
 目前に掲げられた雑誌を好機とばかりに取り上げ、棚に戻す。そんなに嫌なら引き受けなきゃいいのに、と思っても飲み込んでおいた。たぶん、良尚は意味のないことはしない。きっと理由はある。
「そう、入沢くん。よく判ったね」
「愚問だろ、それ」
 いよいよ溜息を吐きそうな良尚の形相に、噴き出しそうになるのを堪えた。
 情報提供者の確認などわざわざしなくても判りきっていることだった。敢えてそれをするというのは、文句の一つも言うのに、事実確認を得ておきたいというところなのかもしれない。
「入沢くんが教えてくれなかったら、知らないまんまだったんだよ?」
 不満そうにしてみた。
 隠し事するなんて酷い、なんて怒りは無いけれど。話してくれなかった寂しさは、若干あったりする。隠すほどでもないことだけに。
「わざわざ言うことでもないし。たいしたことでもないし。顔映ってないんだから誰だか判んないし」
 確かに顔は映ってない。でもきっと、何の予備知識もないままこの写真を見せられても、良尚だと判った。彼のフォームには、人を惹きつける魅力が宿っている。
「恥ずかしい?」
「いや?」
「ふーん。あっそ」素直に返ってくるとは思っていなかったので、くるりと方向転換する。「…んじゃ、次こそ教材コーナーへ」
 さっと影が走ったのを察知した時には、胸に抱えていた残りの一冊も取られていた。声を出す暇もないほどの素早さだ。
「ちょっ…。あたしがなに買おうと勝手でしょー」
「これは別。教材コーナーはあっちだな」
 有無を言わさず背中を押され、渋々歩き出す。
「あとで買おう、とか、思ってないよな?」
 答えず、「きっかけって何だったの?」と逸らしてみる。「もしかしてスポンサーついたりしてる?」
 良尚ほどの実力者であれば有り得ないことでもなかった。高校の時から注目を集めていた人なんだし、と誇らしく思うのと同時に、気持ちに翳が差した。彼の進む路に傷をつけた。決して忘れてはいけない、怪我の要因。
 数瞬の引き止めが招いた最悪の事態。責任はいつまでも背負い続けなければいけない。
「跳んでるとこ写真撮らせるだけでちょっとした収入になるから引き受けただけ。俺さ、時間とれないからバイトとかできないし」
 後ろを歩く良尚には華保の翳が見えず、安堵する。すぐに気持ちを立て直し、発声を意識した。何気ないを装うことが上達していればいいと祈りながら、後方へ話し掛けた。
「ほしいものでもあるの?」
「プレゼントしたいんだ、華保に」
「あたし?」
「時間も満足に作れなくて、なにもしてやれなくて、せめて贈り物くらい」
 胸がきゅうっと甘く締め付けられる。咄嗟には声を出せなかった。
 時間がないのはお互いさま。別々の大学に進学して、もうすぐ2ヶ月が過ぎようとしていた。それぞれの目標に向かって日々に追われるばかりで、ゆっくり会っていられる今日みたいな日は、すごく貴重だ。
 やっぱり良尚はずるい。
 感情がせり上がって喉の奥に停滞する。
「あたしは別に…物なんてもらえなくてもいい。…ってくれたら……それだけで…」
「え、なに?」
 尻すぼみに音量を小さくしていった声は良尚の耳には届かなく。言ってるうちに羞恥心が込み上げて声が小さくなったことなど、二度も言えない。
「なんでも…ないっ」
 どうしてこうも素直になれないのか。軽く嫌気を覚える。もっと素直に言葉にできたらいいのに。
「気になんだろ。なに?」
「たいしたことじゃなくて」
「じゃー言える」
 などと、似通った遣り取りを数回繰り返し、根負けした。正確には、話さないならこの場で抱き締める、なんて本気とも嘘ともとれる表情で断言する脅しに屈したのだけれど。
「こっ…こうして逢ってくれるだけでいいのっ。贈り物貰うより……う、嬉しい…から」
 綻ぶような笑顔が向けられても、その中に揶揄の響きも見受けられて、ちょっと複雑だ。
「俺がしたいなって思ってやりたいだけ。例えばアクセサリーとかだったら、自分が贈ったもん身につけてほしいって思うし。自己満足ってやつな」
 大好きな笑顔を自分だけに向けてくれる喜びを、どう表現したらいいのか、時々判らなくなる。こくり、と頷いたまま俯かせてしまった。顔が熱くて、上げられない。
 狭まった視界に手が侵入してきて、華保のそれをとる。向かうべき方向へと歩き出した。
「探しに来た本って、医療系の棚になるのか?あそこに検索機あるから調べるか」
 繋いだ手から良尚の背中へ、視線を上げた。ゆっくりと、華保の歩調に合わせてくれる。
 ぬくもりは確かにここにあるのに、不安になる。いつだって笑いかけてくれるのに、怖くなる。
 信じられないとか不満があるとか、そういう思いでないことだけは明確なのだけど。
「あの、ね。……ゆ、有名に…なっちゃたり、する?」
「へ?」
 すぐにはぴんとこなかったようで。きょとんとした表情が振り返った。目が合った直後、合点顔。
「嫌?」
「え、そ、それは……もちろん」
「意味不明な心配はしないよーに」
 屈託なく笑われたら、それ以上突き詰めるわけにもいかない。勝手な想像の範囲を出ていない話だ。
 自覚、薄いんだろうか…。というか、無いのかな。
 自身が見目惹く人間だということを。
 道をゆけば、華保も注目を浴びる。けれどそれは、良尚が注目される理由と対極にあるもので。
 油断すればあっという間に暗い方向へと思考を傾けてしまう。負い目や後悔が、待ったなしで押し寄せてくる。
 良尚に余計な気がかりを植えつけないよう、こちらも笑い返す。落ち込むのも溜息つくのも、一人の時にすればいい。せっかくの時間を無駄に過ごしたくない。
「彼女の心配が当たるかどうかは別にして」
 落ち着き払った女性の声がした。自分たちの方に向けられている気もしたが、聞き覚えのない声で。良尚を窺い見れば、視線は定められていた。知り合いに向ける目線だと判る。
「こんな所で会うなんて奇遇ね」
 艶やかな唇が、瞬きする度にばさりと音がしそうなほどの長い睫が、滑らかな陶器のような頬が、華麗な笑顔をつくっていた。他のものを一気に惹き込む微笑み。超絶美人、という言葉が浮かぶ。
 同姓である華保が思わずどきどきしてしまうほどなのだから良尚もさぞや、と見上げてみれば、いたって平常だった。どうも、と会釈している。
 美的感覚がずれているのか、なんて失礼なことを真剣に思ってしまう。それとも、見慣れてしまうほど親密で、そんな境界はとっくに過ぎてしまった、とか…?
 慌ててかぶりを振る。みっともない猜疑心が、油断するとすぐに顔を出す。
 もっと自分に自信が持てたら、こんな気持ちになることも無くなったりするの?


[短編掲載中]