つい、と顔を動かした入沢が華保の肩越しに何かを見つける。怪訝そうな顔つきになった。つられるように振り返りかけて、入沢に呼ばれる。
「舞阪さ、俺のこと好き?」
 じっと見つめた。真っ直ぐに見つめ返してくる。揶揄するでもなく、真剣すぎるわけでもない。口端が緩く上がっているのは、華保に気負わせないようにしていると映る。
「…うん」
「俺も、好きだよ」
 さらりと返すその中に、華保だけに伝わるメッセージがあった。
 声が出せなかった。喉の奥に、込み上げた感情の塊が、言葉にするのを邪魔する。小刻みに、何度も頷いた。
「でも、俺らのは、違うんだよな」
「……う、ん」
「さんきゅーな。すっきりできるわ」
 明るい声だった。清々しいほどの笑顔が、華保に向けられた。強く唇を噛み締める。返す言葉など、見つかる筈もなく。
 入沢は気安い笑顔のまま、華保の背後に向かって片手を挙げた。今度こそ振り返る。険しい顔つきの良尚が近づいてきていた。足取りも表情に倣っていて、思わず身構える。
 間際に迫っても速度は落ちず、息を詰め見つめていると、真正面に立った良尚は華保の両脇に手を差し込み、そのままひょいと持ち上げた。コンテナの上に座らされ、あまりの唐突さに悲鳴さえ飲み込んでしまう。
 目線は良尚を少し見下ろす位置になって、近くで見るとむっとしているのは明白だった。
 怒らせた理由が判らない。謝るよりも先に理由を捜そうとして、その隙に大きな掌が頬を包んだ。骨ばったしっかりとした指がゆっくりと動き、目尻をなぞる。涙を拭ったのだ、と判って反射的に声が出た。
「ち、違うのっ。これはっ、」
 入沢が華保を傷つけるようなことを言って泣かせたと勘違いしたのだとしたら、誤解は解かないといけない。
「きついこと言われたとか思ってない」もう片方の手が華保の膝に触れる。「サポーターは?」
 触れる仕草はどれも優しいのに、語調が怒っているので叱られている気分になる。かといって、真正直に話すわけにもいかない。
「バイト入るのに邪魔だったから…」
 あながち嘘でもないが、誤魔化したい気持ちの方が大きく、その後ろめたさから声は小さくなってしまった。
「痛みはないか?もし外せとか言われてんなら、」
 心底心配顔を向けられ、ようやと悟る。怒りの矛先がここにはいない誰かなのだ。
「違うよ。そんなんじゃない。痛くて泣いてたんでも、ないよ」
 判ってる、と良尚は呟いた。
 頬にあてられた指は、止め処ない涙をずっと拭ってくれている。
「嬉しかったんだろ?嫌われてなくて良かった、とかそんな理由だと思ってるけど、違う?」
 こんなにも自分のことを判ってくれてる人が傍にいてくれる幸せに、余計泣けてしまった。
 泣き通しで、そんな顔を見られるのは情けなく、覆ってしまいたかったけれど。
「舞阪」
 入沢の呼び掛けに俯きかけた顔を上げた。さっぱりとした表情を向けていて、少なくとも華保には、それが気遣って無理をしているものには見えなかった。
「舞阪、またな」緩やかに笑む。
 そのまま去って行こうとするのが窺えて、呼び止める為の言は掠れた。ひどく小さな呟きでしかなかったのに入沢の動きが停止し、次を待ってくれている。
 喉の奥でつっかえるものを飲み下し、空気を吸い込んだ。
「また、ね。入沢くん」
 何気ない挨拶の単語なのに、ひどく勇気がいった。気軽にするには憚るほどの溝が出来上がっていたことを、今更ながらに知らしめられる。
 はっきりと言えた自信はあった。はっきりと言わなければ、いけなかった。嬉しかったのだと、伝わってほしかった。またねを言えるようにしてくれたことが、言えることが、嬉しいのだと知ってほしかった。
「おぅ。またな」
 満足そうに笑った。そう、受け取れる笑顔だった。
 大きく頷くのを見届けると、入沢は踵を返し、遠ざかって行った。本当はもっと話をしたかったけれど、今の彼を止める権利など、誰も持っていない。
 入沢が去っていくのを見送りもしなかった良尚はじっと動かずにいて、華保は入沢から視線を剥がすと良尚に向き直る。頬にあてられた手に自分のそれを重ねた。きゅと握り締め、外す。身体を折って、良尚の肩口に顔を埋めた。
「華保?」
「……」
 せり上がる嗚咽が零れてしまいそうで、声が出せない。柔らかく名を呼ぶ良尚のぬくもりに身を委ねた。
「痛むのか?」
「…ううん」かすかに首を振った。
 ぽむぽむと頭を撫でてくれる掌の感触が心地よかった。間近に聞こえる良尚の声が耳に染みてくる。
 幸せすぎて、時折怖くなる。この手を、自分はきっと手放せない。
 そんな不安を口にしたらきっと怒られてしまうから。
「……ハンカチないから、代わり」
 代わりに冗談めかして、華保は小さく笑った。




[短編掲載中]