深海の静けさを連想させる、声音だった。深く暗い海の底に沈められた者の、静かな叫び。
 右手首を取られ、内側を上に向けられる。《夢》と同じ痣が、あった。血の気が失せる。隠せる筈もないのに、そうすることで隠せる気がして、手を引っ込めると同時に左手で覆った。
「俺にもある」
 袖をめくり、同じ箇所にある痣を見せた。
「…っ」
 言葉に詰まり声が出せない代わりに首を振る。認めたくなかった。己の身に降り掛かったことだと思いたくなかった。単なる偶然なのだと、信じたかった。
 痣は、昨日家に帰った時にはすでに現れていた。たぶん、襲われた時には出現していた。どんなにこすっても、消えることはなかった。
「証とか、自覚とか…全然、判んないよ。なんであたしなの。…あたし、なにもしてないのに…!」
 涙声になっているのが、悔しかった。それでも、せり上がる感情を押さえ込むには、心に余裕が必要だった。今のリアには、そんなものは露ほども無い。抱え込んだ膝に顔をうずめる。せめて、今の顔だけは見られたくなかった。
 《夢》を見たのは、いつからだった?
 リアの内側の、感情に近いところに位置しているもう一人の自分が問いかける。始まりに、継続に、意味はある?
「《夢》は、暗示だった。こうなることを、知らせていた…?」
 カイリに、というよりは、独り言みたいに口にする。おぞましい世界観が、鮮明に想起する。途端畏れが身を震わせた。がば、と顔をあげる。
「唯衣はどうなっちゃうの!?ねぇ、《夢》の中で唯衣は…、城本くんだって…!」
 真摯な視線がぶつかり合い、リアはそれを微妙にずらした。予知夢だとしたら、二人は――
「《夢》は、あくまで夢だ。今は考えるな。警告であって、現実に起こることじゃない。そんなもの、俺が変えてやる」
 カイリには偽りを感じさせない力強さがあった。信じさせようとしているのか、信じたいだけなのか。
「運命なら、変えられる。俺が変えてみせる」
 言い切った直後、扉が音をたてて開いた。足を踏み入れてきたのは用務員だった。
「こんな時間になにしてるんだ。どうやって入った」
 足早に近寄ってくる。立ち上がると、カイリは自身の背後にリアを置き、立ちはだかった。背中からぴんとした緊張が伝わってくる。
「城本くん?」
 返事はない。空気が張り詰め、微動だにせずじっと前を見据えてる。
「お前たち…、見つ、けた…」
 用務員の声が変質した。唐突に切り替わる聞き覚えのある音。どこからともなく耳慣れてしまった不快音がする。カイリの陰から周囲を窺いながら、目の前のシャツを無意識に握り締めていた。
 カイリの右腕が動いて、後ろ手に横へとリアを動かした。次の瞬間、顔のすぐ横をかすめて、黒い腕がフェンスを鷲掴みにする。独特の異彩を漆黒に染めた手が、引き千切らんばかりにフェンスに絡み付く。
 視界に赤が散って、リアの頬へかかった。
「走れ!!」
 カイリの怒号が落ち、腕に圧力を感じたと思ったら、引っ張られていた。目指すは出口。振り向きざまに見た用務員は野田と同じく、闇を湛えたモノへと変形していた。
「城本くんっ、怪我してる!」
 カイリの袖が裂け、二の腕から血が流れ出ていた。
「いーから、走れ!後ろ見んな!」
 切裂音にカイリが振り返り、端整な顔立ちが焦燥に染められた。
「明石!!」
 理由を確かめる間もなく、強靭な引力がリアを絡め取る。掴まれていた腕がカイリから離れ、前のめりに転んだ。締めあげる冷たい感触が、望まぬ方向へと引き摺っていく。足首に黒い手が絡み付いていた。
「いやっ…!!」
 おぞましい。《夢》なんかよりも確実な実感。気持ち悪い。こわい。嫌だ。触らないで。願いは一向に聞き入れられることなく、寒々しい感覚が這い上がってくる。掴まれてない方の足で蹴り外そうとして、空を蹴った。用務員の腕がうねりつつ、リアを引き寄せていく。強靭な圧力と速度に抗えない。
 カイリはもう一方の黒い腕に弾き飛ばされ、落ちた先で連撃を繰り出されていた。――その中で一点、腕の痣が光を放つ。
 蒼銀色の光は剣を模って、具現化された。鋭く動く剣は弧を描き、微塵の躊躇いもなく斬りつける。鮮やかに、淀みなく、軌跡を描く。黒い腕が宙に舞い、地に落ちた。カイリが体勢を立て直すと同時に踏み込んで、飛躍する。用務員だったものは吠えながら、先端を失ったばかりの腕の残部を防御にまわす。カイリは臆せず剣を振り落とした。
 潤滑な動きに、視線は釘付けになる。
 滑らかな軌跡が用務員の躯を駆け抜けて数瞬、奇妙な沈黙が穿たれた。呻き声があがり、それを合図に、用務員の上半身と下半身がずれた。悲鳴が早朝の屋上に響いて、溶けた。
 半身になって地を這っても、リアを捕らえる圧は弛むことはない。逆に、増してさえいた。すでに人の形ではなくなり黒い塊と化していたのに、野田のように霧となって消えなかった。野田が現われた時と同じように闇の孔へと変わり、足先のすぐ傍にぽっかりと開いた。闇の空間へと引き摺られていく。孔から一斉に無数の手が生えリアを覆った。完全に覆われる一瞬前、駆け寄るカイリが見えた。視界は黒に染められ、リアごとひとつの塊となって孔へと一気に向かう。声が出せない息苦しさに、意識の中だけでリアは叫んでいた。


[短編掲載中]