自販機で購入した紅茶を一口飲んで、大きく息を吐き出した。屋上のコンクリートは地べたに座ると冷たくて、混雑に渦巻く頭まで冷やしてくれそうな気がした。
「覚悟してここに来たんだと思ってた」
 本気で呆れ返った風に、億劫そうにカイリは溜息付きで吐き出した。
 隣で並んで座る彼は、元の姿に戻っていた。コーヒーを飲みながら、深く溜息を吐く。情の欠片もない、辟易したものだ。
「覚悟、って…。無理だよ。こんなにも突飛なこと言われるなんて、想像できない。しかも、城本くんのキャラでは絶対出てこない単語じゃない」
「作りもんのキャラでは、な」
 すかさず訂正を付ける。してやったりの感覚なのだろうか。見事化けていられたことに関しては。眉根を寄せたリアに構うことなく、カイリは先へ進む。
「全く想像してなかったわけじゃないだろ。《夢》で見てたんだから。単に受け入れるのが怖かっただけだ」
 遠慮なく、痛いとこを衝いてきた。言葉に詰まったリアを容赦なくほったらかしにする。
「で、なにが起こってるか話していいか。なにが起こるのか。予想できてるだろうけど、念の為。狙われてるのはお前で、護る為に俺はいる。奴らはお前を、取り込もうとしてる」
 あまりにもさらりと言ってのけるものだから、危うく聞き流してしまうところだった。言語処理能力が追いつかないのは自分が魯鈍だから、ではない筈だ。なんて、この際どうでもいい方向に考えが及んで、慌てて舵を戻す。
「取り込むって、なに。あたしが狙われる理由は」
 即座に質問を挟んだ。強引なペースに巻き込まれっぱなしでいるほど、リアは大人しくない。
「邪魔だからだよ」
「標的にされる覚えはない」
 ともすれば、喧嘩腰ともとれるリアを宥めるが如く、カイリはゆっくりと深く、息を吐き出した。昂ぶっているのはリアなのに、カイリがそうすることで、その場を落ち着かせようとしているみたいだった。
「覚えがなくて当たり前だ。不運だった、と思うしかない」
「――意味、判んない。全っ然、納得いかない!」
 不服をぶつける相手が違っていることくらい、判っていた。判っていて、抑え込めなかった。尖る視線を突き立てる。
 深刻な話題を乗りで話しているようにしか聞こえないカイリの言動に苛立つ。状況を知っているのは彼しかいない。憤りは目の前にぶつけるしかなかった。ぶつけてもぶつけても足りない。追窮を重ねようとして、目線が合った瞬間、先を呑み込んだ。
 表情の中に、見つけてしまう。誰よりもそう思ってきたのは、彼なのかもしれない。理不尽さに翻弄され、流れに逆らうことが出来ないのは、彼も同じ。
「捜すのに時間喰っちまったのは、悪かったと思ってる」
 ほんの少しだけ、声音が軟化する。ぶっきらぼうな物言いになったのは、気まずさからくるものなのか。が、真摯で萎れた感じがしたのは一瞬だけで。
「つぅか、そっちがなんの信号も出さないからだ」
 しおらしさはどこいった。リアも反射で臨戦態勢に入る。
「逆ギレ?《夢》に城本くんが出てくるんだけど、翼があって目の色がいつもと違うの、なんて普通話せるっ?頭変な奴って思われるのがオチじゃない。天使なら、もっと高度な能力とかないわけ!」
 やってらんない、と鼻息荒くした。と精一杯装う。噛み付いた態を貫いていなければ、とたんに涙腺が決壊しそうだった。
 《夢》だけでも不安だったところに非現実的なことが降り掛かってきて、そのタイミングで現れたカイリに期待した。混乱するばかりだった状況を把握できるのではないかと。逃れる術を知っているのではないかと。
 すぐさまへたるほど弱いタチではないけれど、さすがに平常心ではいられない。巧く掴みきれないリアが悪いのか。もどかしさばかりが際立つ。
 せめて、頭の中を整理できる速度で進めてほしかった。
「――時間が…無かった」
 心中察してか、カイリは話し方を緩めた。泣き出しそうな顔にでもなっていたのかもしれない。
「すげー焦ってたし、合宿ん時は油断してた。というか、神経方々に張り巡らせてたら逐一の把捉ができてなかったんだ。漠然と目星はつけていたけど、訊くわけにもいかないし、」言って、はた、と止まる。
 カイリが紡げなかった続きを、リアが引き継いだ。
「それって同じ、じゃないの」
「……だな」
 ふ、と互いに顔を合わせ、綻ぶ。思わず、な綻び方は油断している風の無邪気な笑顔だった。どれが本当のカイリなのか、判然としない。しないが、別物の筈の笑顔が《夢》の大人びた微笑みと不意に重なって、つと顔を逸らしてしまった。どんなカイリを曝けても、結局は同一人物だと知らされる。
「…どうなるの?あたしは、どうしたら、いいの?」
 声が小さくなった。今まで抱え込んでいた不安が、決壊して溢れ出しそうだった。
「昨日は、間一髪で悪かった」
 リアは静かに首を横に振った。誰かが悪いとか、そういうことじゃない。
「助けてくれて、ありがとう。…だけど、なんで?あたしが狙われる理由ってなに?不運の一言で、済まさないで」
「詳しいことは俺にも判らない」痛みを堪えるような顔でかぶりを振る。「優先すべきことは他にある。まずは自覚してくれ。すぐには無理とか、言ってる場合じゃない。自分が何者であるか。生命を狙われてることも。闘えなくていいから、生命を護ることを、最優先してくれ。でなきゃ、護りきる自信はない」
 有無を言わせぬ迫力の懇願。選択の余地はないのだと明示する。
「城本くんは…怖くないの。疑問はないの。護るとか闘うとか、普通に生活してたら無縁な話なのに。しかも、天使って…。昔から伝えられてる天使って、イメージ違う」
 天使には色んな種類がある、とカイリは言った。俺たちは数多ある中の一種類、亜種なのだと。口承されている類の天使は『人を幸せにする』ことが仕事だという。それならばイメージに近い気がした。
「俺には怖いとか思ってる余裕はなかった。疑問を持ったところで、宿命は変えられないしな」
 一瞬だけ、蒼銀色の瞳が見えた。すでに完成した強い決心の表れなのかもしれない。
「話は、とりあえず判ったって、言っとく。――けど、自覚しろって、無理な話だよ。あの中で、天使だったのは城本くんだけだった。あたしはただ、あいつらから逃げるだけで」
 無力そのものだった。唯衣を救うことは、一度だって出来たためしがない。
「《夢》を見たってだけで、実は違うのかも」
 かすかな期待を込めた言葉は、カイリの表情に掻き消された。
「いずれ判る。証を持っているんだからな」


[短編掲載中]