2.光と、闇と、狭間と、

 早朝の屋上は、風が少し強かった。晴天の青空に雲ひとつ無く、見下ろす街並みは起き出したばかりの装いで、平穏そのものに映る。やっぱりあれは幻覚だったのではないだろうか、と思いかけて、失敗する。幾度も希望的楽観視を試みて、事実を思い返しては打ちのめされていた。
 カイリが剣を振るったことも、野田が存在していたことそのものが消え去ったことも、現実だ。
 普段は施錠されている筈の場所が開いていることを訝しがりながらも、現実に起こりつつある不安要素に比べればたいしたことじゃない、と嘲弄が洩れた。
 昨夜、零時を廻ろうかという時間に、カイリからメールが送られてきた。
 ――明日の朝、学校の屋上へきてほしい。
 いちもにもなく喰いついた。気ばかりが急いて、約束した時間よりも三十分も早く着いてしまった。相手がいなければどうにも進まない状況に、身勝手な苛立ちが湧く。フェンスを鷲掴み校庭を見下ろした。思考を無にすることはできなくて、悪い方向にばかり傾いでいく。振り切るように頭を力強く振った。
 考えたところで答えなんて出ない。不安になってしまうだけだ。これまで散々言い聞かせてきたことなのに。馬鹿みたいに繰り返したところで素直に受け入れるものでもなくて。
「勢いよく振りすぎだろ。首もげんじゃねぇの」
 塔屋の扉を肩で押える恰好で寄り掛かって立つカイリがいた。腕を前で組み、リアを見据えてくる双眸には、周囲に人がいる時には明らかになかった色がある。纏う雰囲気が別物だ。肩を離し、歩き出すと同時に取り出した携帯電話の画面に目を落とした。
「随分早いな」ついと顔を上げ、続けて片眉を持ち上げた。「…って、んな怖い顔すんなって」
 余裕すら見受けられるカイリの表情が、癪に障った。無遠慮な雰囲気にあてられて、こちらもつられたのか。自覚できるほどに険のある視線を投げつけていた。
「はよっす。近くで見ると、ますますヒデー顔してんな」
 真正面に立ち止まるや不躾極まれりの物言いにむっとする。
 合宿から戻って帰宅し、食欲も気力も無くてずっと部屋に引き籠もっていた。ベッドで横になっても布団の中で丸まっていても、落ち着ける場所なんてどこにもなかった。眠るのが怖かった。変化しているかもしれない《夢》を、見るのが怖かった。朝まで待てないと、返信しようかと何度も何度も迷ったほどだったのに。
 朝になって顔を合わせてみたら、カイリの態度は神経を逆撫でした。
「怒ってんのか」
 怒ってないと本気で思ってるのだとしたら大したものだ。嫌味で拍手喝采送ってやる。そっちがそうならこっちだって。厭味ったらしい口調を無遠慮にぶつけた。
「なんか、態度違くない?城本くんって、こんなキャラだった?」
 まるで別人。おとついまでの彼は、微塵もいない。
 リアの言葉を受けて興を見つけたみたいに顔を歪ませる。こ憎たらしい笑みが浮かんだ。
「こっちが本性。イイコの優等生は演じてるだけ。その方が、見つけ易いだろ?」
「…どういう、意味」
「そのまんまだな。同胞を捜す為にわざわざ潜り込んだんだ。近寄りがたいキャラでいくと人探しはしにくいもんなんだよ。素がこれじゃあ、協力も頼めそうにない。だろ?……人間って、面倒臭い性根持ってるよな」
 リアの隣にきてフェンスに背中を預けるカイリの動きを目で追った。空を仰いで溜息混じりに言い放った言葉は、自らを人間ではないと言ったようにも受け取れる。
「同胞って、なに。貴方は、なんなの」
 恐れていた。訝しさを超えて、完全に怖がっている声音で問い掛けていた。気持ちの悪い予感が胸の内側を這いずり廻っている。聞かなくてはと言い聞かせる反面、本能が拒絶する。聞いてしまえば後戻りできない予感があって、後戻りできるかもと一縷の望みに縋ろうとする自分が滑稽に思えた。聞こうが聞くまいが、きっと変わらない。
 回答次第では、もしそれで「人間ではない」と答えられたら。捜し出したかった『同胞』がリアだとしたら。――リア自身も異なるモノということで。
 聞きたくない。なのに口が勝手に動く。
「貴方は…、人間じゃない?《夢》みたいに翼があったりする…?」
 震える息と共に、どこにもぶつけられなかった憤りを吐き出した。哀しみたいのか怒りたいのか、自分でも判らない。
「百聞は一見に如かず。見てろ」
 対するカイリは余裕の笑みを崩さない。フェンスから離れ、リアから二メートルほどの距離をあけた。
 目蓋を降ろし両腕を大きく広げる。優雅にしなやかに、指先の先まで神経が伝わっていく。祈りを捧げるように、光を全身に浴びるように、天を仰ぐ。
 視界に、白が、広がる。
 背中から現れたのは銀白の翼。ゆるやかにひと羽ばたきさせると、軽やかな風がリアの横を通り抜ける。開かれた瞳は、幾度も見てきた色だった。目の前が、眩む。
 ――また、現実との境目がなくなってしまう。
「俺たちは天使と呼ばれる存在だ。この世界の人間が信じるか否かは別として、実在している。俺の役目はお前を助けること。俺に与えられた、宿命だ」
 透明な、蒼銀色の声音で、あっけらかんとのたまった。それから思いついたように追加する。軽やかに、何でもないことを口にするかのように。
「お前も、天使ってやつだからな」


[短編掲載中]