結論が伝達されるや、指先が動いた。運動神経が隅々まで叩き起きる。逃げなくては、と危機信号があとを追って全身を駆け巡る。
 背後は壁で後退は不可能だった。距離をとって迂回し、出口を目指すのが堅実かもしれない。黒いものがこのままの鈍さであれば、の話だけれど。逃走経路を描きつつ、迫り来る動きを慎重に観察した。微妙に変化していることに気づく。
 のっぺりとした顔面に、人間でいう口のあたりに横一直線に切れ目が入った。開いた奥には暗闇がさざめいていた。発せられる音は、無数の手を連想させる。あの、無限に増殖せんとする音。今にも飛び出してきそうだ。
 全身が総毛立つ。
 あんなものがいっぺんに襲ってきたら、とてもじゃないが抵抗しきれない。せめて《夢》同様に剣でもあれば。はたと気づいて、手探りで武器にできるものを捜した。
 じりじりと迫りくる異形のものは、口の次に目、続けて鼻を形成し、皮膚が僅かずつ変色していった。暗鬱な闇の色から、人肌の色へと。
 組成された顔を見て、リアは声をあげずにはいられなかった。見知った顔。最近入部したばかりの野田だった。カイリ目当てだと、話していたのを耳にしたことがある。再び硬直してしまったリアは、凝視するしかなかった。
 なんなの、これ。
 明確なのは人間じゃないことだけ。肘から下は依然黒いままだった。それ自体が意思を持つ生物みたいに、奇妙な方向へうねっている。にやりと嗤う口内も、漆黒だ。白目も瞳もなく、くり貫かれたように真っ黒で、底なしの空間がそこにあった。
「こ…ないで。近寄んな!」
 《夢》の中で剣を振り廻したように、現実の今は、素手を力の限りに大きく振り廻していた。宙を掻き廻すだけの、無意味な動き。
「見つ…けた…」
 唇がぎこちなく動いて、重々しく言葉が漏れた。耳障りな気味の悪い声音。合間に発する言葉にもならない音が、せせら笑うように響く。
 瞬きも忘れて瞠目する。リアの瞳に姿が映り込む。腕が伸びる様を如実に映し、次の瞬間には喉元に衝撃があった。締め上げられ、持ち上げられる。リアは爪先立ちの状態で壁に押し付けられていた。
 苦しさに意識が朦朧とする。剥がそうともがいても、びくともしなかった。温度を少しも感じられない、冷たい手。触れている部分から凍て付いていきそうだった。
 息が出来ない。苦しい。目の前が暗くなっていく。――誰か。…誰か、助けて。
 意識が飛ぶ直前、一陣の風が顔を掠めた。
「失せろっ!」
 怒号が飛んで、聞いたこともない音が続いた。悲鳴が覆い被さる。
 畳の上に落ちたリアが視力を取り戻す前に、気管へと空気が勢いをつけて流れ込んでくる。痛いくらいに咳き込んで、動けなくなる。リアの横に何かが落ちた。うねり、やがて動きを止めたのは、黒い腕の一部。
 短い悲鳴をあげ、後退ずさる。すっぱりと斬れた断面から、粘度の高い液体が滲み出て畳を汚す。
「下がってろ!」
 リアに向けてるらしい怒号然としたものが頭上から落ちてくる。目前に二本の足が立ちはだかった。ぎこちなくも懸命に首を動かし視線を上げていく。肘から下を無くし苦痛の色を浮かべた野田が、対峙する者を睨みつけていた。
「一人前に痛覚なんてものがあるんだったな」
 小馬鹿にしたように鼻で笑って、手にしていた剣を斜め下へと振った。迸ったのは黒い液体。そこに転がる腕から流れ出ているのと同じもの。《夢》の中でリアが持っていたのよりも、ひと廻りもふた周りも大きな剣が、鋭く光を放っていた。
 じりじりと視線を上げていく。剣を持つ者の背中があり、肩の向こうに横顔の一部が見える。這い蹲る恰好では首を巡らせられる限界の角度だった。腕にも脚にも力が入らず、躯を起こせない。
 見ず知らずの人ではなかった。よく逢っていた、と言ってもいい。
「城本、くん…?」
 やっと、声が音になった。カイリは顔を少しだけ動かし、後方へ――リアへ向けて「ちょっと待ってろ。すぐ片付ける」と宣言する。抑揚のない、平坦な物言いは、別人のようだ。
 状況を把握できなくて、けれど自分を庇う恰好で立つカイリは救世主と思える存在で、すでに正面を見据えているカイリの背中に向かって、何度も頷いた。
 カイリが軽やかに踏み込んで、構えていた剣を振り下ろす。退路を取る間もなく、野田は刃を受けた。真ん中から縦一直線に裂ける。また、先と同じ音がして、さきほど聞いたのは腕が斬り落とされた時の悲鳴と知る。漆黒の口内から悲鳴とも咆哮ともとれない音を発し、二つに裂かれた躯が、ゆっくりと左右両側へと倒れていった。床に落ち、黒い塊となり、霧のように分散して、消えた。
 呆然とするリアの傍まで戻ってくるとカイリはしゃがみ込んだ。瞳を離せずにいるうちに伸びてきた手が、軽く触れる。反射で身を縮めてしまい、拒絶ではないのだと弁明したくとも、声が出ない。いったんは引っ込められ中途半端に宙に浮いていた手が、数秒躊躇った後、ゆっくりと近づいた。両方の掌で頬を包み込まれる。
「もう大丈夫だ。安心しろ」
 沁み入るような柔らかい声と、真剣な眼差しに、視界が滲む。嗚咽を零してしまいそうで、ぎゅっと唇を噛み、小さく頷いた。頬に体温を感じる。黒い手にはなかった温度だ。
「あた…し、あの。あれ、は…」
 声が震えて、頭の中が混乱していて、質問を整然とはできない。カイリはゆるやかに笑顔を作った。
「俺の目、見ろ」
 蒼銀色の瞳。冷たい色なのに、あたたかみが感じられる。震えがすっと引いた。深呼吸する。呼気が震えていないのを確認してか、カイリはそっと手を離した。
「目の色…」
 《夢》の中と同じ微笑が浮かび、蒼銀色の双眸がリアを見つめている。カイリが口を開きかけ、続けられる言葉に予想もつけられず、緊迫した空気に息を呑む。
「ああ、ちょっと待って。戻すわ」
 続けられたのはあまりにもぞんざいな軽口調。呆気にとられる。リアの知るカイリと、同一とは思えなかった。
 カイリは目蓋を閉じる。一秒と経たず開けた時には普段通りの色に戻っていた。
 元通り、じゃない。彼は、城本カイリの容姿をした別人だ。纏う雰囲気がまるで違う。リア側の気の昂ぶりの所為ともとれるが、それだけで片付けるのは早合点がすぎる。
「あれ、は…なに?野田さんはどうなったの?…城本くんは、何者なの」
 堰をきって溢れ出してくる疑問の波が口をついて出る。逃がすものかとするように、カイリの腕を掴んでいた。力が入っていく。
 野田が塊となって消えた箇所も、斬り離された腕も黒い染みも、最初に現れた部屋の隅にも、何も残っていない。カイリが持っていた剣さえも消えている。何事も無かったように、総ての痕跡が消え去っていた。
「いっぺんに聞くな。順をおって説明する。…けど、今のところはお預けだな」
 待ってよ、と言い掛けて、神経を尖らせたカイリの気配に先は飲み下す。人差し指を立ててリアの目前にかざした。緘口を示す仕草のあと、立ち上がって戸口を見遣る。
 人の走る音がした、と思ったら、勢いよく扉が開いた。息急きって仁王立ちしているのは唯衣だ。リアを見るなり半べそになり、駆け寄った勢いのまま抱きつく。背後に倒れかけて手をつきどうにか留まる。
「起きてて平気なの!?心配したんだよ!?倒れたって聞いて…」
 首に捲きついてる唯衣の頭を軽く叩いて宥める。
「平気だよー。ったく、大袈裟なんだから」
「軽い貧血みたいだよ。少し横になってれば大丈夫だと思う」
 声がして、やっとカイリがいたことに気がついた唯衣は躯を離し潤んだまま見上げた。
「城本くんが助けてくれたの?」
「助けるってほど、大袈裟じゃないよ」
 万人を恍惚に惹き込む笑みが浮かんだ。ごく自然な風に。リアの知る、皆の知っている、平時の中にいる『城本カイリ』だ。
「偶然近くにいたもんだから」
 妖艶とも言えるその微笑みは、これまでと変わらずにずっと、彼が周囲に呈してきたもの。剣を握っていた城本カイリは鳴りを潜めていた。どちらが本当の『城本カイリ』かなんて、どうでもいい。
 この期に及んでも、幻だったらと願わずにいられない。不意にカイリと視線がかち合って、見透かし諌められたようで、暗鬱な不安に泣きたくなる。


[短編掲載中]