合宿所に戻るのに手を貸してくれて、リアが休んでいることを唯衣に知らせてくれるというカイリの厚意に素直に甘えた。強がりを押し出せるほどの気力を振り絞れない。
 大広間まで運んでくれたカイリが出て行って、ぽつんと独り残される。畳の上に直接寝転がる。ざらついた感触が頬に当たった。このままだと痕ついちゃうよなぁ、とぼんやり思い、そのまま転がっとく。大きく息を吸い込むと畳の匂いが肺に沁み込んで、ようやと人心地つけた気がした。倦怠感はだいぶ抜けていたが、体勢を変える気力がない。
 昨夜ここでみんなと集まって笑い合っていたことが、遠い過去のようだ。思い描けば喧騒さえも残響しそうなくらい真新しい記憶なのに。
 話してしまおうか。――即座に無理と回答が紡ぎ出される。だいたい、誰に話すというの。
「唯衣に、」
 呟いた直後、乾いた笑いが零れた。話せるわけがない。可能だったならとうの昔に話してた。心配をかけるだけだと知っていて、避けたくて誤魔化してきたのに。今更縋るなんて虫がよすぎる。だとしたら、
「……城本くんに?」
 さらに乾ききった笑いが落ちる。馬鹿じゃないの。
 たかが《夢》の中の話じゃないか。何をどう説明すればいいのかすら判らないくせに。切羽詰ったからって誰かと共有して重石を押し付けようなんて。
 勢い任せに話してしまわなくてよかったと安堵する傍らで、先行きの見えないこれからに怯えている自分は確かにいた。《夢》は暗示なのか、たかがなのか。
 ふと、数日前の唯衣の言葉がよぎった。

「夢占い?」
 思いのほか素っ頓狂な音程で聞き返していた。
 昼休み時間で食べ終わったばかりの弁当箱を片している時のことだった。唯衣は学校の売店で購入した紙パックジュースを一口飲んでからこっくりと頷いた。
「得意なんだってさ、城本くん。女のコってそーゆうの好きじゃない?」
「で、常に人だまりができてるって寸法なわけ」
 ちらりと目線を投げた唯衣に倣って見遣る。教室の一角にカイリを取り囲む集団ができている。理由はたぶんそれだけではないのだろうけど。
 ふぅんと興味ない素振りで、リアは「夢」という単語に動揺したことを隠す。
「予約制なんだって」
「はいっ?」
 唯衣は、どっから声出してんの、と可笑しそうにする。
「だって、バカバカしくって」
「そー言うと思った。だからね、予約入れといたんだ」
 つらっと言ってのけた唯衣の顔を、穴が開くほど凝視した。にこにこ笑顔は可愛らしさ全開だ。って、いやいや、危うく惑わされるところだった。意識して頭のてっぺんから「予約って言ったの?」と聞き返す。「支離滅裂な日本語言ってんの、自覚してる?」
 熱を計る仕草で唯衣のおでこに手をあてた。その手を掴んで下ろすと、唯衣は表情を引き締めた。
「あたしたちが調べたのだけじゃ判らなかったことが、判るかもしれない」
 それまであった笑顔は余韻も残さず消え去って、真剣な面持ちだけが残っている。
「当たるって言ってた子、多いの。少しくらい、リアの悩みが解消するかもしれないじゃない」
 あたしは本気だよ、と念押し宣言する。相手が真面目なのは百も承知で、はいはいと軽口調を返した。
 唯衣の言う通りかもしれない。もしかしたら話が巧い方向へ流れて、ちゃんと解明できるのかもしれない。けれど一方で、はっきりさせるのが怖いとも思っていた。

 どっちにしろ、唯衣が予約していたのは合宿後日で、あんな短い時間ですら見てしまう《夢》を、はっきりさせるしかないのかもしれない。尻込みしている場合ではない局面まできてるのではないか。
 無人の大広間で人目がないのをいいことに、リアは声を殺して泣いた。タガが外れてしまっては止める術がない。弱った心からは、弱音しか吐き出せなかった。
「誰か助けて。きつい、よ…」
 ごろんと反転し、壁と向かい合った。躯を小さく折りたたむ。嗚咽が漏れないように、口に力強く腕を押し付けた。
 助けて。どうしたらいいのか判らない。誰か、教えて。
 呼吸が苦しく、声をあげたくなくて、堪える。喉に塊が膨らんでいくようだった。己が発する物音以外が無い中に、ざわり、と音が割り込んだ。背筋が冷える。
 すでに耳馴染みとなってしまった音。何度も何度も襲い掛かってきた音だ。
 我が耳を疑うよりも先に、弾かれたようにして躯を起こし、方角を探った。聴覚に神経を尖らせ、視野を広くとる。部屋内部に変化は見当たらない。
 ついさっき見たばかりの影響?単なる幻聴?
 目に見えるものがないからと気を抜くことはできなかった。強張った全身に力が入る。そして、見つけた。
 向かって右側、出入口近くの壁の隅が、黒くさざめいていた。真っ黒の毬藻みたいに真ん丸の物体は微妙に振動し、畳から数センチ上に浮いていた。拳大の塊はぽっかりと口を開けたブラックホールにも似て、背筋を凍らせる音を撒き散らしながら、範囲を広げていった。見る間に肥大化していく。
 動けなかった。声が出なかった。ひたすらに凝視する他なかった。精神は完全に畏怖に制圧されていた。
 黒の拡大が止んだ。音だけを不気味に吐き出し続け、こちらの様子を窺っているかのようだ。そこに目が在る訳でもないのに、睨まれているようで視線を剥がせない。一瞬でも逸らせば、一気に間合いを詰められそうで。
 直感が悟る。あれは孔だ。暗く深い、底なしの孔。油断してはいけない。内側で警鐘が煩く鳴る。
 そしてそれは、現れた。
 《夢》と同じく、無数ではなかった。肘から先だけでもなかった。人の形をとった漆黒のものが、孔から這いずり出てくる。愚鈍な動きで、徐々に全貌を現していく。爪先まで出てしまうと、孔は広がったのと同じ速度で縮小し、霧が晴れるように消えた。後に残されたのは、軟体の黒い人型。ゲル状の光沢をもつ、人の型。
 頭と思しき位置にある丸いものがぐるりと動き、止まった。ちょうどリアを見つけた風に。
 のそのそと立ち上がり、鈍足なまでに歩き出す。リアを目標物と定めた、迷いのない歩みだ。着実に距離を縮めてくる。踏み出すごとに人間では有り得ない角度まで上半身がぶれた。ぐにゃりと歪み、前後左右揺れるままに曲がって。動けないリアを嘲笑うかの如くゆっくりとした速度で距離を縮める。恐怖を煽っているのだとしたら大成功だ。
 これは《夢》?まだ続きを見ているの?
 必死に思考を回転させる。
 これは、違う。《夢》じゃない。幻でもない。まぎれもない現実。――自分はいま、目覚めてる!


[短編掲載中]